akane
2019/08/08
akane
2019/08/08
「先生は怒ってないからね」
というセリフを聞けば、社会生活の経験値があまり収集できていない幼稚園の子でさえ、「あ、この人は大人げなく激怒している」と理解し、抜群の回避行動を見せる。
なるべく先生と目を合わせず、発言は控えめ、ふだん立ち歩きがちな子もイスにはりつく。
もちろん、なかにはどんくさい子もいる(ぼくのことだ)。「そうか、怒っていないのか」と言葉通りに解釈して、平常運転で先生に質問などかまして逆鱗に触れる。
「あれ? 怒ってないはずなのに?」と不思議には思うが、発言と感情が一致していないことには思い至らない。基本的に空気を読んだり、行間を読んだり、表情を読んだりすることは苦手なのだ。
そういえば、国語の問題でも筆者の意図を述べよとか、登場人物の気持ちを推測しろといった類いの行間を読む系の設問は嫌だった。筆者の意図なんかわからん、というのが正直なところである。
だって、どんな悲恋ものを書いていたって、そのとき筆者は「おなかが減ったな」とか「印税率もうちょっと上がらないかな」とか考えているかもしれないし、その方が可能性が高いと思う。
どうして、入試問題などで高い蓋然性をもって「筆者はこういうことを考えていたのだ!」という設問が作れるのか、いまだによく飲み込めていない。
実際、最近自分の文章で入試問題を作ってもらえる機会が増えた(ありがたいことである)のだが、「筆者の意図は何か」という多肢選択肢問題で、その文章についてぼくが考えていたことは選択肢になかった。本人が考えていたことより、ずいぶん立派な解釈をしてもらっていた。世の中は優しい。
人の能力などというものは、障害があるにしろないにしろ、またそれが人の感情を読み取る能力であれ、それ以外の能力であれ、すべからくスペクトラム上に分布しているだろう。
その意味では、定型発達の子も、境界線上の子(ぼく)も、同じ評価軸の上に立っている。しかし、手帳がもらえるくらいの子(ぼくの子だ)になると、やっぱり行動がかなり振り切れてくる。
(先生)「先生は怒っていないよ」
「……(気付いていない。水遊びをしている)」
(先生)「怒っていないけどね、今は水遊びじゃなくて、席に座る時間じゃないかな」
「……(やっと先生の存在に気付く)」
(先生)「水遊びはどうかと思うなあ」
「怒られていますか?」
(先生)「いや、先生は怒っていないよ! でも、お湯を使うのはもったいないかな。エコってわかる?」
「……(お湯を水にする)」
(先生)「あれ? 何してるの?」
「水にしました。資源の無駄がガスと水から、水だけになりました」
(先生)「……!!!」
流れるような手順で先生の戸惑いと怒りを増幅させて、落雷に至るのである。私の勉強している分野に増幅型DDoS攻撃という、インターネット上のサーバの攻撃手法がある。最初に送り出したパケットをわらしべ長者ふうにどんどん(他人の力で)大きくして、巨大なデータとして目標サーバに送りつけ、運転停止へ追い込むのである。
やっていることは迷惑極まりないのだが、そのプロセスの独創性と流麗さはいっそ賞賛を贈りたいほどだ。発達障害を持つ子(のうちの一部)が先生をいらつかせる手際も同じように際立っていて、いや、実際止めに入ることもできたのだけれど、面白いので最後までプロセスを進めて見届けてしまった。ぼくもついでに怒られたけど。
表情や行間は読み取れなくても、明文化された情報や視覚で捉えられる事象は異様に記憶して、それを墨守することができる。これって何かに似ているなあと考えていたら、コンピュータだった。発達障害とコンピュータの親和性については、またいずれ。
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