「志ん朝の分も頑張るか」【第8回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

「志ん朝の死」という悲劇に打ちのめされた落語界にあって、俄然ファイトを剥き出しにしたのが立川談志だった。

 

志ん朝の死に際し「志ん朝の不幸はライバルがいなかったこと。自称ライバルはいたが、真のライバルはいなかった」と書いた作家がいた。「談志ファンは志ん朝も聴くが、志ん朝ファンには談志嫌いが多い」とはよく言われることだが、この作家はまさにそのタイプ。「自称ライバル」とは明らかに談志を念頭に置いての皮肉で、志ん朝在りし日からこの人は「志ん朝にライバルがいないのは良くない。志ん生になったつもりの自称天才はいるが、実質が伴わない」などと書いていた。

 

だが、若き日から互いを認め合ってきた談志と志ん朝の間には、当事者にしかわからない様々な想いがあったに違いないし、キャリアを通じての「談志・志ん朝」の関係性を、客観的に見て「ライバル」と位置付けるのは何ら不自然なことではないと僕は思う。

 

談志没後の2012年に出た『DNA対談 談志の基準』(立川志らく・松岡弓子)という本の中で、談志の長女である松岡弓子氏が、こんなエピソードを明かしている。談志が亡くなる数年前にテレビで初めて志ん朝の『火焔太鼓』を聴いてその素晴らしさに感激し、談志に電話してそのことを伝えたところ、談志は「いいだろう? 俺、涙出てきちゃったよ」と言ったというのだ。

 

この「志ん朝の『火焔太鼓』に涙した」件は、談志が晩年の著書『談志 最後の落語論』(2009年)で自ら書いている。

 

「暮れにテレビを見ていたら(略)その頃の芸人が大勢出ていた。(略)みんな上手く演っている。(略)でも面白くない。(略)最後に志ん朝が出た。助かった。『火焔太鼓』を演っている。涙が出てきた。志ん朝、助かったよ。これが落語なんだ。これがちゃんとした落語なんだ。私の演ってきた落語とは違う。でも、これが落語というものなのだ。志ん朝の明るさ、綺麗さ、落語のテンポ、文句ない。これは何度も書いたことだが、もう一度書く。もし、この談志が金を払って落語を聴かなければいけないとしたら、志ん朝しかいない」

 

談志は志ん朝が亡くなる前日の2001年9月30日、千葉で開催された「圓歌・志ん朝二人会」に、病気療養中の志ん朝の代演として出演し、マクラで「俺が志ん朝じゃなくて圓歌の代演だったらよかったって思ってるだろ?」と言って笑わせた。

 

翌日、NHKに仕事で出かけた談志は志ん朝逝去についてのコメントを求められ、「いいときに死んだよ。良かったよ」と言った。

 

当時の談志は、翌年1月から順次刊行されることになる『立川談志遺言大全集』(全14巻)の執筆に取り組んでいた。その第14巻『芸人論二 早めの遺言』の第1部「狂気と破滅と芸の道」は第7章までで成り立つ芸人論だが、その第4章は「志ん朝へ」と題され、丸々1章分、志ん朝のことを書いている。

 

この「志ん朝へ」は、現代の作品派の最高峰としての志ん朝の課題について触れ、「病気になったと聞いた。病床でゆっくりと楽しむべき、とアドバイスまで」と締めくくった後、段落を変えて「と書いたら、志ん朝が死んだ」と続く。ここで談志は、NHKでのコメントの真意を説明している。

 

志ん朝の華麗な芸が肉体の老いと共に衰えていくのは見たくない。肉体の衰えを精神で補うことができたかもしれない、という仮定の話をしたところで、死んだ者が生き返るわけではない。「惜しい」と言ったところで、もう落語は演れないのだから、「これで充分だよ、良かったよ」と言ってあげたほうが、当人は安心できるのではないか。だから「いいときに死んだよ」とコメントしたのだ、と談志は言う。志ん朝の華麗な芸を愛した談志ゆえの、最大級の敬意を込めたコメントだったのだ。

 

ちなみに、スポーツ新聞などに寄せた談志のコメントは以下のとおり。

 

「志ん朝の芸は華麗で元気いっぱいなところが魅力だったが、最近それが欠けているというので気にしていた。現在の演芸で金を払っても見たいというのは志ん朝だけ。志ん生を継いだときには口上を述べてやると約束していたので、継げなくなったのは残念だが、現在の落語界で最高の芸を見せた見事な人生だったと言ってやりたい」

 

「志ん朝へ」の中で談志は「落語の本道をやって家元を反省させてくれるのは志ん朝だけだと思っていた」「ああいう噺家がもっといたら、落語界は談志の御託を許さなかったかもしれない」と書き、「綺麗な芸を残して見事に死んだ。結構でしたよ」と志ん朝を讃えている。

 

志ん朝が亡くなって1ヵ月後の2001年10月31日、西新井文化ホールでの独演会で談志は「志ん朝の分も頑張るか」と言った。それまでの数年間、落語の高座よりも執筆など多方面での活躍が目立っていた感もあった談志だが、志ん朝の死を境に、明らかに落語の比重が高まった。ライバルの死によって、天才が覚醒したのである。

 

大ホールでの独演会を即日ソールドアウトにし、高座で特大ホームランを連発する談志の“全盛期”が、ここから始まった。

 

【著者】広瀬和生(ひろせかずお)
1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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