ryomiyagi
2020/02/01
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2020/02/01
手塚治虫『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)1997年
連載第34回で紹介した『カラヤン帝国興亡史』に続けて読んでいただきたいのが、『ぼくのマンガ人生』である。本書をご覧になれば、手塚治虫の人生とはどのようなものだったのか、彼にとってマンガとは何だったのか、そして彼が生涯追求し続けた「生命の尊厳」が何を意味するのか、明らかになってくるだろう。
著者の手塚治虫氏は、1928年生まれ。大阪帝国大学附属医学専門部(現在の大阪大学医学部)を卒業し医師免許を取得。在学中の1946年、『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)に4コママンガ「マアチャンの日記帳」連載を開始してデビュー。1952年、雑誌『少年』に「鉄腕アトム」連載を開始して大評判になる。1961年に奈良県立医科大学より医学博士号取得。同年からアニメーション制作を開始。
1966年に「虫プロダクション」を発足させ、実験漫画雑誌『COM』を創刊。膨大なテレビアニメを制作する中で経営不振に陥り1973年に倒産。個人としても当時の金額で1億5千万円という巨額負債を抱えた。しかし、その後も多くのマンガとアニメを発表し続け、芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育映画賞、ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞など多数の栄誉に浴した。『手塚治虫漫画全集』(講談社)全400巻の他、アニメを加えると著作は数えきれない。1989年2月9日胃がんのため逝去。
本書は、1986年から1988年の晩年にかけて手塚氏が行った講演記録をまとめたもので、手塚氏が初期に描いたマンガや、手塚氏を知る家族・友人のインタビュー記事も加えられ、彼の人生が生き生きと浮かび上がってくるように工夫されている。
手塚の享年は60歳である。その短い生涯の間に、「鉄腕アトム」・「リボンの騎士」・「ジャングル大帝」・「火の鳥」・「ブッダ」・「ブラック・ジャック」・「三つ目がとおる」・「海のトリトン」・「どろろ」・「ユニコ」・「マグマ大使」・「バンパイヤ」・「ミッドナイト」・「新選組」・「アドルフに告ぐ」など、無数の傑作を創造したことに驚嘆させられる。人間離れした偉業であり、「漫画の神様」と呼ばれるのも当然である。
しかし、デビュー直後の1950年代の手塚は、日本中の両親や教育関係者から「ものすごい批判」を浴びた。最も多かったのは「荒唐無稽」だからという理由で、「日本に高速道路や高速鉄道ができるわけがない」とか「人間が月に行けるわけがない」とか「ロボットができるわけがない」と非難されたというのだから、おもしろい。
その頃、「鉄腕アトム」の真似をして2階から飛び降りて大怪我をした少年がいた。新聞は、この事件を大々的に取り上げて「マンガの罪悪」について書き立てたという。手塚は「でたらめを描く少年の敵」と呼ばれながら、黙って作品を描き続けた。
手塚の会社が倒産して「絶体絶命のピンチ」に陥ると、彼を金儲けに利用していた周囲の人々は、一斉に消え去った。20人もの債権者が押しかけてくる状況で彼を救ったのは、それまでほとんど交流のなかった葛西健蔵という人物である。葛西氏は、ベビーカーなどを製造する大阪の会社「アップリカ」の創業者として知られる。
葛西氏の父親は、スチール家具の会社を経営していた。その経営が非常に苦しい状況に陥ったとき、手塚は学童机と椅子に「鉄腕アトム」のキャラクターを使用することを快諾した。それらが爆発的に売れたおかげで、その会社は息を吹き返した。葛西氏は、父親の受けた恩を返すために、大阪から東京に飛んで行ったのである。
葛西氏が債権者たちに土下座して謝っている隣の建物で、手塚は「ぼくにはマンガを描くしかできません。それで借金を返すしかないのです」と、平然としてマンガを描いていたという。葛西氏は、「この人、ほんまに天才や」と思ったそうだ。
どんなに科学万能になっても、人間は自分が神様のようになれると思ったら大まちがいで、やはり愚かしい一介の生物にすぎないのです。だから、ほかの動物や植物と同じレベルと考えていいのではないだろうか。そういう同じレベルの生物ならば、人間は生きているあいだにせめて十分に生きがいのある仕事を見つけて、そして死ぬときがきたら満足して死んでいく、それが人生ではないかというようなことを、ぼくはとっかえひっかえテーマを変えながらマンガに描いているのです。(P.89)
手塚の戦争体験がどのようなものだったか、彼が未来の子ども達に伝えたかった真剣なメッセージとは何かを知るためにも、『ぼくのマンガ人生』は必読である!
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