【第8回】「糸満ティーブイ」著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

魚を頭にのせて売りに行く

 

前回、沖縄県糸満市の泡盛メーカーで社員全員がやっておられる「瓶踊り」のことを書いた。

 

このようなことをやっておられるのは、宴会芸として、こういうことがあった、ということもあるけれど、それより何より、まず、糸満というところに「頭上運搬」の伝統があったゆえのことである。

 

戦後、車による運搬が普及し始めるまで、糸満漁港でとれた魚を糸満の女たちは頭にのせて那覇の市場まで運んでいた。現在80代、糸満市在住の西島本和枝さんは、彼女自身のお母さんを含め、糸満の女たちが魚を売りに行っていた姿をよく覚えておられる(*1)。

 

女の人はね、魚を売るのが仕事ですからね。カミアチネーと言ってね、頭にのせて売りに行くわけです。バーキというざるにですね、魚を入れる。タマン(フエフキダイ)のような大きな魚はカミアチネーしませんね。グルクン(タカサゴ)とかスズメダイとかね、小さい魚をカミアチネーします。

 

頭の上に、ガンシナーという丸いもの(*2)をのせて、ガンシナーの上に、板をのせるんですね。魚をざるに入れているから汁が出るでしょう、だから、頭との間に板をのせるの。この板は、魚を売るときのまな板にも使えますね。ガンシナーの上に板をのせて、その上に魚の入ったバーキをのせます。

 

一旦のせたら、片手でつかまえなくても歩けます。片手をつける人もいますけど。だいたい、つかまえなくてもそのまま歩けるんですね。20キロとか30キロとかをのせますから、一人ではのせられません。誰かに助けてもらって頭にのせるか、石垣の上にのせるようにしてから、頭にのせたりします(著者注:この辺りは連載6回目の、芋を運ぶ時と同じである)。

 

糸満の港に船が入ってくるのを見て、(船から)魚をおろして、午後の2時か3時ごろ港を出て、那覇の市場に夕方持っていく。母たちは、だから、朝じゃなかったですね。午後に運んでいました。那覇の市場まで歩いて1時間くらいかかりますから、運んで、売って、帰る頃には夜になります。母が帰る頃にはもう寝てしまっていたので、母が帰ってくる姿を見たことは、子どもの頃にはなかったですね。

 

 

糸満と那覇のあいだを小走りで急ぐ女たち

 

文献によると、糸満から那覇方面へのカミアチネー(頭で載せて行商する)は、早朝に水揚げされる魚を運び、一日に3回も那覇と糸満の間を往復する女性もいたという(*3)。糸満から那覇まで、12kmある。魚を運ぶのであるから、ゆっくり運んでいたのでは鮮度がどんどん落ちてしまう。30キロもの魚を頭の上にのせ、糸満の女性たちは、裸足で小走りくらいの速さで那覇へ急いでいたのだという。

 

『糸満市史』には、このような女性たちが、数名あるいは十数名も揃って先を急ぎながら走っていくさまが描かれている。和枝さんの話にもあるように、多くの女性が片手を添えずに運んでいたようで、両手は体の横でひらひらと水をかくように振っていたといい、この手の振り方は独特だったため、イチマンティーブイ(糸満手振り)と呼ばれていたのである。「走っていましたよ」と和枝さんがいうくらい、大変な速さであったようだ。

 

和枝さんは、糸満の女性たちは、那覇に出た時に、たとえば遊郭の女性たちと間違われることがないように、「小柄の着物」を着ていたのだという。大柄な着物や大きな縞柄ではなく、目立たない小さな柄の地味な着物を着て、糸満と那覇の間を、独特な手振りで、裸足で急ぐ女性たち。30キロもの荷物をまな板を挟んで頭にのせ、何人もの女性たちがゆく姿を想像すると、過酷な仕事だったのだろうとは思えど、整えられた身体を駆使した、いかに美しい姿であったろうか、と思う。

 

これだけの距離を、そんなに急いで、それほどの重たい荷物を運んでいたら、落としたり、転んだり、アクシデントがありそうに思うのだが、和枝さんは、「落とした人のことは見たことも聞いたこともない」と断言する。転んだ人も見たことない。

 

だって、売り物なのに、落としたら、売れないじゃないですか。それに重たいんだから、一回落としたら、自分では頭にのせられないんだから、落としたりしませんよ!

 

うーん、そうはいっても、パフォーマンス悪い人がいても、おかしくなさそうなものだが……。そこは、商売。転んでいる場合でも、落としている場合でもないのである。

 

 

「私はできません」の「できない」内容……

 

こういう身体能力の高さを考えると、今、私たちがやっているスポーツとか武道とか、ダンスとか、まあ、それはそれですごいんだけど、所詮お遊びだよな、と思ってしまう。

 

もちろんスポーツも武道もダンスも、やっておられる方は真剣にやっておられることを知っているし、自分がやるときだって真剣にやるし、そのことにウソはないのだが、しかし、例えばこの糸満の女性たちがやっていたように、また、モータリゼーション以前の世界中の人たちがやっていたように、ものを作ったり、ものを運んだりすることは、自らの身体能力のすべてをかけたことだったのだ。

 

今や、自動車もあるし、頭にのせてものを運ばなくてよくなってはいるのだが、頭にものをのせて運べた頃の、自分の身体への理解と直感の力、意識の力がなくなってくることが、私たちの人間としてのあり方に何の影響もない、とどうしていえよう?

 

和枝さんは、終始、「私はできません」とおっしゃっていた。頭にものをのせて運ぶことが、である。しかし、だんだん話を聞いていくうちに、和枝さんができないのは、というか、やったことがないのは、「頭に30キロの魚の入ったバーキ(ざる)と板をのせて、糸満‐那覇間を、イチマンティーブイ(糸満手振り)して走るように12km行く」ことだったとわかってくる。

 

頭にものをのせて運ぶことって、誰にもできるんでしょうか、と聞くと、「できます」と断言なさる。「落とした人を見たことがない」と同じくらい、きっぱりと。これは誰でもできるのだという。

 

誰に習ったかって? 誰にも習っていませんよ。教わったことなんかないですよ。頭にのせたら、そのまま運ぶだけです。子どもの頃からやっているから、みんなできるんですよ、という。薪を積んだ「ヤンバルブニ」(沖縄本島の北部からくる船)が港に着くと、お盆と正月にはとにかく家族総出で、薪を取りに行き、家に薪を運ぶ。

 

和枝さん自身も、4、5歳の頃から薪を運んでいた。小さい頃は、ひと束、大きくなると、ふた束、3束、と大人が頭にのせてくれるのだという。のせられたら、そのまま運ぶ。男の子は、それらを肩に乗せて運んでいたらしい。周りがやっているのを見るから、そのまま子どもも運ぶのである(著者注:この辺りも連載第6回の石垣島の方の語りと同じである)。

 

和枝さんはいうのだ。頭にのせた方が、重たいものは運べますからねえ。今でも何か運びますか、って? そんなに運ばないねえ。でも、この間、お布団運びましたよ。お布団、二階に持っていく時、手では運べないからねえ、頭にのせて運びましたね……。

 

80代の方が、布団を頭にのせて運べる、というのは、やっぱりすごいパフォーマンスだと思う。重いと首が痛くなりませんか、というと、姿勢が良ければ首は痛くならない、重すぎるものは、胸が痛くなります、とのことだった。泡盛の瓶? 私はのせませんよ、と、明るく笑っておられた。宴会芸の話では、ないのである。

 

――――――――

 

(*1)糸満市教育委員会にて。2018年1月12日。
(*2)「ガンシナは歩行時における荷物の安定を保ち、同時に荷物の重量が及ぼす衝撃から頭部を保護するために考えられたものである。ワラシビを輪状に丸めて作ることが多いが、七島蘭も使われていた」糸満市史編集委員会『糸満市史 資料編12(民俗資料)』「第2章(生業)第3節(商業)」p.121、1991年。
(*3)糸満市史編集委員会『糸満市史 資料編12(民俗資料)』「第2章(生業)第3節(商業)」 p.123、1991年。

 

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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