第9章 異邦人(3)弟
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/04/09

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第9章
異邦人(3)弟

 

 ジヒョンが電話の向こうで口にする音に、耳をそばだてた。
「ウジン、ソン ウジンです」
 もしかしたらその発音が、紙切れに書かれていた名前と重なるのかもしれないと、菜々子は自分でも口に出してみる。
「ウ ジ ン」
「それで、お母さんのお名前は?」
「スミンといいます。だけど、本当におかしいね、菜々子。というか、今どこにいる?」
「ス ミ ン」
 やはり同じように口にしてみた。
「ジヒョン。本当に、お父さんはウジンさんで、お母さんはスミンさんなんだよね? ミンジュンさんとカウンさんではないんだよね?」
 菜々子が急いでそう問い直すと、
「おお、それは韓国人の名前だ。だけど、その名前、どこから来た?」
 ジヒョンは、電話口で笑っているようだった。色白で、笑うと目尻が垂れる、その顔が浮かんだ。
「ねえ、菜々子、本当にどこにいるの?」
 もう一度、今度は少し静かな口調で、そう訊いてきた。
「世田谷の例の病院からかけてる。今、弁護士の人たちも集まっているんだけど、ジヒョン、私の本当のお父さんとお母さんは韓国の人だった」
 ジヒョンが、黙ってしまう。
「もしもし?」
「ごめん、私、ただ、びっくりしてる。それで、そのお二人の名前というのが、菜々子の本当のご両親なの?」
「苗字がジヒョンと同じで、思えば私たちは誕生日も近いから、もしかして、私と取り違えられた子どもがジヒョンだったのかと思ってしまってね。電話で急に失礼なことを言って、ごめんね」
 腕時計を見ると、会議再会の時間が過ぎていた。
「戻らなきゃ。終わったらまた連絡するね」
 と言いかけて、訊いてみた。
「ジヒョンは、何してたの?」
「私、尊くんに、メールを書いてた。毎日この時間にメールするよ」
 ジヒョンの話は、いつも温かい。
「そうか、邪魔しちゃったね」
「何を遠慮してる? 私は、菜々子の想像した通りだったら良かったのにって考えてしまったよ。私のお父さんとお母さんは、本当にいい人たちですから」
 自分の子どもに会いたいと口にした母も、もしも成長した娘がジヒョンだったら、それは良かったと思ったろう。自慢の娘になったろう。
「じゃあ、一度切るね」
 菜々子は通話を切ると、階段を駆け上がった。

 

 

 すでにカンファレンスルームの扉は閉ざされていた。中へと足を踏み入れると、少し冷静になったように見える父が、資料を渡され、これから考えられる経緯の説明を受けている。
 家族全員、親子鑑定の再鑑定は必須、とのこと。検査機関は、病院サイドで準備する。その正式な結果を待って、韓国籍の夫婦の捜索を始めるのだという。
 ひいては、宮本家も弁護士をつけることを先方に勧められた。
 家族の横並びの列の中に座っているのが、辛かった。体の芯から熱が奪われ、自分だけ椅子に引きずり込まれていくようだった。
 菜々子は、手に握りしめていた小さな紙切れを、そっとペンケースにしまった。韓国籍の父と母の行方は、自分で探し出してみせる。目の前にいるこの人たちを、信用することはできない。向かい合って座る人たちの顔ぶれを順に眺めていく。少なくともここにある情報は、彼らだってもう本当は掌握しているはずなのに、まずもう一度親子鑑定を受けろと言う。

 

 

 病院の通用門から、皆で外に出る。
 すぐ前に、街灯が灯っていた。
 そこから皆で歩き出す方向を決めかねるかのように、父が、呟いた。
「食事でもしようか」
「食欲ねぇ」
 とため息をつく弟の肩に手を置く。
「なくても食べるんだよ、こんな時は。ばかやろう、当たり前のことを言わせるな」
 諭しているようなのに、父の口調もまた温かく響いた。
「でも、外は嫌だわ。取り乱しそうで。サーちゃんの家に、もう一回寄らせてもらえないかしら?」
 母の頼みに、サーちゃんは、
「そうね。それがいいわ」
 サーちゃんだって、同じように混乱しているはずなのに、母は今だってまた、自分のことで頭がいっぱいだ。
「ごめん、私、この後約束がある」
 菜々子は街灯の真ん中の強すぎる光を見ながら言った。
「姉貴それはなくね?」
 と、弟が腕に手をかけてきた。そんなことはこれまでだって何度もあったはずなのに、彼は不意に手を引いた。街灯の下だったからか、その目に戸惑いの光が揺れて見えた。
 姉弟でないなら、六歳違うとはいえ、異性同士だった。たった今、そう意識したのは、自分だったのか、弟の方だったのか。
「俺らは、もう湯河原に帰ろう」
 弟にだって十分、長い一日のはずだった。彼から靴音が響き出す。

 

 

 カカオトーク、三姉妹のトーク画面には、一日で長い長いメッセージが並ぶ。
 文字だけでなく、写真も一日一度は載せ合う。おしゃれが好きな次姉は、新しい服や髪型、メイクまで、自撮りして共有する。
 長姉はもう結婚しているから、夫や子どもたちのこと、新しいレストランのことも伝えてくる。
 今日、ジヒョンは、菜々子の話を伝えた。これまでもこのトーク画面に、何度、菜々子が登場したかわからない。姉たちももう、
〈ナナコは元気?〉と、当たり前のように訊いてくる。何しろ、はじめて日本でできた友人だ。真っ先に報告したし、一緒の写真も送った。〈日本の友達、背が高くて、オートバイに乗る。かっこいいよ〉と。
 そんな菜々子が、親子鑑定をするようになったこともこれまで折に触れて伝えて来た。
 今日は、生物学上の両親が韓国籍だとわかり、苗字がソンなので、菜々子がとても慌てたことを書いた。
 長いやり取りになってしまうし、姉たちが自分の家族のことのように気を揉むのはわかっていたが、なんだか急に、本当に間違えられていたのは自分ではないのかという気持ちになっていた。
 竹久夢二の絵を見た時の落ち着かない気持ちや、尊への消えない思いの元は、もしかしてそこにあったのかとも考えた。
 先ほど電話で、入れ替わった子どもが自分だったら良かったのになどと口にしたのは、自分の家族なら菜々子を大歓迎するだろうという単純すぎる思いだった。
 実際には、韓国人のある夫婦の元で、日本人の子どもが育てられていることになる。その子もいつか、自分が本当の子なのかどうか疑い始めるのだろうか。それとももう、その家族も何かを調べたのだろうか。

 

 

〈それで、ナナコは本当の親に会えるの? もう見つかったの?〉
 夜の十時を回っている。さすがにもうミーティングは終わったはずだが、まだ菜々子から連絡は来ていない。
〈名前はわかっているみたいだけど、どうなんだろう〉
 さっき耳で聞いたのを忘れないように、自分でもメモ書きした名前を見て、ソン ミンジュン氏とカウン氏を、頭の中でハングルに置き換える。
〈何か、私たちにできることがあったら、言ってよね〉と、次姉が書いた。
〈オモニにも、伝えた方がいいと思う。その頃、同じ世田谷にいた方々なら、オモニたちは、ご存知かもしれない〉
 と、長姉が書く。
〈そうだね〉と、ジヒョンは納得する。
〈ジヒョナ、オモニには電話がいい。寂しがっていたもの。昨日も、今日も、ジヒョナがお正月に帰らなかったことを嘆いていたよ。一日だって二日だっていいのにって〉
 と、再び長姉が書いてきてくれた。
〈さっきね、その子、もしかして本当に私じゃないよね? って想像したよ〉
 ジヒョンは思わず、そう書いた。
〈ジヒョナがそんなことを考えていると思っただけで、泣けてくるよ〉
 次姉が泣き顔のスタンプとともに、そう書いて来た。
〈それだって、なんだって、私たちは家族だけど〉
 長姉は、そう書いてくれた。
 ジヒョンは、ハングルに変換した夫婦の名を、もう一度、レポート用紙に書き直した。
 入れ替わった凍結受精卵が、二人の母親の体の中で育まれていった。そして、その体からそれぞれが生まれた。
 これから自分が生きようとしている医療の世界を、はじめて恐ろしくも感じていた。

 

 

毎週金曜日更新
PHOTOS:秋

 

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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