ryomiyagi
2019/12/27
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2019/12/27
※本稿は韓国で2017年に刊行され、150万部以上を売上げて社会現象ともなったイ・ギジュのエッセイ集『言葉の温度』から抜粋・再編集したものです。
繁華街を歩いていたら、気の毒な場面に出くわした。カフェの前に、一匹の犬がつながれていた。捨て犬ではなさそうだった。
その犬は周囲の人の視線に動ぜず、タカのような目でじっとカフェの入り口の方を見つめていた。自分をつないで用事を済ませに行った薄情な主人を待っているように見えた。
犬をそんなふうに放っておいていいものかと思ったが、なすすべのなかった私は、内心で早く主人が戻ってくるのを願った。
家に向かう途中、主人を待っていた犬の哀れな表情が目に浮かんだ。突然、「待つ」という単語とともに、詩人のファン・ジウの詩の一節が頭のなかを満たした。
君が来ると言ったあの場所、僕が先に来ているこの場所で
扉を開けて入ってくるすべての人が
君だと思ったら
君だと思ったら、君だと思ったのに……
――「君を待つあいだ」より
待つとは何だろうか。もしかすると、待つとは、希望のもう一つの名前ではないだろうか。
待つということは、心のなかに何かの希望と期待を抱いたまま、黙々と、あるいは辛抱強く何かを準備することだ。
誰かの連絡を待つとき、出会いとその結果を待つ瞬間、私たちは胸の高鳴るような想像に浸るものだ。そして、ひょっとすると具体的な対象や特定の相手を能動的に待つということは、私たちが生きている証拠なのかもしれない。
待つとはそういうことだ。体を動かさなくても、心だけは未来に向かって走り出している。
そのように希望という足がかりを通じて、時間の空白を一つずつ埋めていく過程が、待つということなのだ。そして時には、その空白を埋めてこそ、やってくるものがある。
待ってこそ、出会えるものがあるのだ。
イ・ギジュ(李起周)
作家。成均館大学卒業。ソウル経済新聞などで社会部・経済部・政治部記者として勤務した。文章を書き、本を作る。使い捨てられ、消えていく言葉ついて書く。心をかきみだす言葉と文章に耽溺する。ときおり母親の化粧台に花を供える。著書に、『言語の品格』『言葉の温度』『一時大切だったもの』などがあり、累計発行部数200万部を超える。
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