事実ではなく、空気で罰する。相撲界の暴行事件で浮かぶ日本の「集団いじめ」性質
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ryomiyagi

2020/07/02

2017年10月、大相撲の横綱・日馬富士関が、幕内の貴ノ岩関に酒の席で暴力をふるい、怪我をさせた事件が明らかになった。しかしここで、警察に被害届を出した貴乃花親方(当時)と貴ノ岩に、相撲界からも外部からも批判が殺到した。なぜ被害者であるはずの彼らが批判され、貴乃花は理事の解任にまで追いやられねばならなかったのか? ダイヤモンド・プリンセス号の告発で注目を浴びた感染症対策の専門家・岩田健太郎さんは、自らのいじめ被害の経験を踏まえ、日本の「空気」優位主義を指摘します。

 

※本稿は、岩田健太郎『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

 

 

■貴ノ岩と、貴乃花親方へのいじめ

 

大相撲の横綱、日馬富士関が、2017年10月に、幕内の貴ノ岩関に酒の席で暴力をふるい、怪我をさせた。これを受けて貴ノ岩の所属する貴乃花部屋の貴乃花親方(当時)が警察に被害届を出した。

 

結局、横綱日馬富士は引退を表明、相撲を廃業した。後に、簡易裁判所がこの暴行事件について、罰金の略式命令を出した。モンゴル出身の日馬富士は、日本に帰化しないままに引退したために親方にもなれず、そのまま相撲界から姿を消す結果となった。また、親方だった貴乃花は、日本相撲協会の理事を解任されてしまった。

 

ここでまず問題にしたいのは、貴ノ岩と、親方だった貴乃花への「いじめ」だ。

 

第一に、貴乃花だ。警察に届け出た貴乃花を、相撲界も外部も批判した。

 

例えば、横綱審議委員会の北村正任委員長は「貴乃花親方の姿勢は納得できない。理事という立場にあって、協会全体が進めることをぶち壊すような動きをしているという疑念、不可解だという意見はみんなあった」と述べたという。

 

しかし、貴ノ岩は暴力を受け、怪我をした被害者である。被害者である貴ノ岩や貴乃花が「(相撲)協会全体が進めることをぶち壊すような」と批判されるのは、全体の調和を個の被害に優先させる、まさに「いじめの論理」である。

 

相撲協会としては、貴乃花が警察に被害届などを出さず、協会内部で内々にことを収めてほしかったのだろう。まさにいじめの隠蔽体質そのものである。

 

それをしなかったから貴乃花は、「協会全体が進めることをぶち壊す」と非難される。しかも、世間にこの意見に同調する人は多く、まさに社会全体がいじめ容認のエートス(空気)を持っているわけだ。

 

落語家の立川志らくはこれに対し、「協力しないってところで組織では『いかがなものか』っていうのはもちろんあるけど、なんでもっと加害者を非難せず、被害者側をやたらと非難するのか、わけがわからない」「これは学校でイジメの被害者の親を『なんで学校に協力しないんだ』ってみんなで批判している(のと同じ)」と述べた(*『日刊スポーツ』(2017年11月28日))。

 

全くそのとおりだとぼくも思う。

 

■世間やメディアに再起不能にされた日馬富士

 

次いで、「加害者」である日馬富士である。日馬富士は2017年11月29日に引退を表明した。

 

もちろん、暴力はいけない。そんなことは当たり前だ。

 

しかし、謝罪し、反省している人物は許されるべきだともぼくは思う。悪いことをしたのだからと、完膚なきまでに、再起不能になるほどに罰せられるというのは、それもまた一つの「いじめ体質」ではなかろうか。

 

簡易裁判所が罰金刑を言い渡したのは、2018年のことである。相撲協会や所属する部屋が日馬富士を処罰するなら、警察の捜査が終わり、判決が確定し、事件の全容が解明してから、「起きたこと」に対して処罰すべきだった。

 

なぜ、「事態が解明されていない」時点で、引退という取り返しがつかない形での(事実上の)処罰に至らねばならないのだろうか。

 

それは、「世間やメディアが『納得しない』」という「空気」に対する処分だったからだ。

 

事実ではなく、空気。これこそが日本社会の集団いじめの構造だ。

 

2018年になり、判決が確定してから、日馬富士を罰するのではだめなのだ。なぜならば、翌年(2018年)になれば、この騒動は沈静化してしまい(事実、沈静化した)、世間はすでに騒いでいないからだ。騒がなくなってからの処罰では、「空気」が収まらないのである。

 

貴乃花の相撲協会理事解任の詳細は分からないが、これも多分に、エキセントリックなところがある同氏が相撲協会の「空気」に同調しなかったから、という側面が強かろう。同調圧力に屈服しない人物は罰せられるのだ。

 

事実ではなく、空気で罰する。これも日本社会の特徴だ。実際に起きたことによってではなく、大騒ぎになることで、大勢で袋叩きにしてやれという空気(=エートス)が生まれる。

 

このような空気の中では、どんなにボコボコに当該人物をいじめても文句は言われない。いじめっ子は、「文句を言われない」という保証があることを確認してから殴りにかかる卑怯者だ。

 

また、日馬富士の「引退」は自主的な決断だから、「処罰」ではない、という言い分はまかり通らない。日馬富士が本心では引退したくなかったのは間違いないのだから。

 

いじめられて自殺した子供に、「自殺は自己決定だ。いじめた人たちはなにも殺すつもりなどなかった」とうそぶくのと同じことだ。

 

日馬富士の引退という決断は、周囲の空気が強いた、事実上の「処罰」である。大勢で日馬富士を袋叩きにする、「いじめ」に等しい行為である。

 

本件は、日馬富士が貴ノ岩を「いじめ」、貴ノ岩と貴乃花が相撲協会や横綱審議委員会やメディアやその他大勢に「いじめられ」、やはり日馬富士が大勢に「いじめられ」……という、いじめの連鎖である。

 

客観的な事実とは無関係に、空気さえ醸造してしまえば、どんな非道ないじめも許される(かのような集団錯覚に陥る)。

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