重光葵、吉田茂が遺した「教育の重要性」 敗戦後の日本で外務省研修所を建てた男たち
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2020/10/19

少子高齢化という今世紀最大の挑戦を受ける21世紀の日本。国力の相対的な地位低下が避けがたい客観情勢の中、国際社会で生き延びるため、以前にも増して重要視されるのが外交官の力量であり、ひいては彼らを育成する「研修」である。敗戦後、不可能と思われた外務省研修所の設立を果たした重光葵や吉田茂らの記が遺る。彼らは何を思い、研修所を今に繋いだのか。

本稿は、片山和之『歴史秘話 外務省研修所 〜知られざる歩みと実態〜』(光文社新書)の一部を再編集したものです

 

 

外交の「勘」を養うために

戦後5ヶ月ほどが経過した1946年1月、外務省官制が改正され、「外務官吏研修所」を設けることが規定された。当時戦災で被害を受け霞が関から港区田村町の日産館に入居していた外務省の3階に、同年2月研修所が開設された。

 

その後、文京区大塚(茗荷谷)にあった東方文化学院の建物を活用し、同年3月1日に同地に研修所が移り、講堂において開所式を行い本格的な活動を始めた。外は雪の降る日であったという。

 

開所式には、幣原喜重郎総理大臣、吉田茂外務大臣といった戦前に活躍した外交官を含め退職者や本省幹部も出席し盛大に式典を挙行したという。戦前、勅令によって制定された官制(各省の設置、権限、定員等を定めたもの)は、新憲法下では法律で規定されることとなり、1949年に公布された外務省設置法に基づき制定された外務省研修規程によって外務官吏研修所は「外務省研修所」となり、この名称は今日もそのまま使われている。

 

1941年に設けられた外務省職員訓練所は、何ら官制上の根拠がなく事実上の存在に過ぎなかったので、運用上、種々の困難や不便があった。戦後の1946年、外務省官制の改正を受け、遂に外務官吏研修所、そしてその後の外務省研修所が法令上の根拠をもって設立されることとなったのである。

 

その結果、当時の外交官試験および外務書記生試験合格採用者はすべて研修所において所定の研修を受けることが法令によって担保されることとなった。戦前と戦後の外務省研修制度の本質的な違いはここにある。

 

敗戦の結果、主権を奪われ、中立国や友好国にあった在外公館はすべて閉鎖され、各国政府との外交関係処理の業務は一旦消滅する。その代わりに国内における占領軍との折衝という業務が「外交」の中心となった。

 

当時の外務省は機構・定員も縮小し(1940年に約5600名であった外務省職員数は1946年には1600名弱にまで削減)、政務局と経済局が廃止されて総務局として統合され、総務、条約、調査、管理4局と情報部の縮小体制を余儀なくされた。他方で、外局として終戦連絡事務局が設置された。行政整理や公職追放令、自己退職等によって外務省を去る職員も少なくなかった。

 

このように主権を制限され、在外公館は閉鎖され、外交権も奪われ、機構の縮小を強いられた受難の時代の外務省に新たに研修所を設置する決断を下したことは、今考えても驚嘆そして特筆に値する。

 

極めて困難な客観情勢の下にありながら、一朝一夕には実現不可能である優秀な外交官養成という日本外交の将来を長期的に見据えた幣原や吉田等の英断により研修所は開設されたのである。

 

重光葵、吉田茂らのメッセージ

 

当初、研修所は終戦連絡事務局業務の熟達や将来の外交再開に備えて、新規採用者および既存の職員に対して、必要な語学および教養を涵養するという点に重点を置いた。しかしながら、英語に堪能な職員が払底していたことから、英語の再教育が研修の圧倒的割合を占めていた。

 

研修所が発足して10周年の1956年、すなわち外交を回復して4年経過し、若手外交官の在外研修も復活して以降、研修所も語学以外の研修科目の比重が徐々に増していった。

 

その頃の事情は、設立10周年を記念して編集され研修所より発行された『外務省研修所十年史』(昭和31年4月)に詳しい。同十年史の冒頭序の部分で重光葵外務大臣、吉田茂元総理大臣(衆議院議員)、佐藤尚武元外務大臣(参議院議員)等が文章を寄せている。

 

『外務省の百年(下)』(外務省百年史編纂委員会、原書房)に該当部分が収録されているので、それに沿って紹介してみたい。国際情勢の変化と日本の置かれた地位に鑑み、語学、人格、識見、能力に優れた外交官養成の重要性と緊急性を当時の外交責任者がいかに痛切に感じていたかがよく分かる。

 

まず、重光葵大臣の序である。重光は、1911年外交官試験に合格し外務省に入省、戦前上海総領事、中国公使、外務次官、英国大使、中国大使、外務大臣等を歴任し、敗戦直後に再び外務大臣として米戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印に政府を代表して署名、その後、極東国際軍事裁判で禁固7年の刑を受け、公職追放解除後は、再び外務大臣としてソ連との国交回復や国連加盟に尽力した。彼は序において概要次の通りのメッセージを寄せている。

 

外交官の養成は昔から議論されてきたが、第1次大戦後に特にその必要性が叫ばれ、その結果として外交官補の養成や在外研究員制度が実施されるようになったが、戦前の官補養成は在外研修を主としていた。国内においては、極めて簡単な事務見習いが行われていたのみであり、戦後の外務省研修所設立によって外務省に初めて総合的な研修制度が行われるようになった。他方で、設立当初は外交も再開されておらず、時宜即応的な域を脱しなかったが、外交を回復し、在外公館も復活する中で研修所も次第に内容が充実し、外交官養成に不可欠の機関として内外の注目を集めるようになった。戦後の日本は戦前と異なり、諸列強の間に伍して政治外交を派手に行い得るような立場には置かれていない。しかし、経済、通商、文化方面における国際的進出の必要性は却って益々高まっており、今後の外交官の任務は従前にまして遥かに広範囲にわたり、困難性・重要性を増し、外交官を育成訓練する研修所の責任もまた重大である。

 

次に吉田茂元総理大臣が序を寄せている。吉田は1906年外交官試験に合格し外務省に入省、戦前天津総領事、奉天(今の瀋陽)総領事、外務次官、イタリア大使、英国大使等を、また、戦後外務大臣、総理大臣等を歴任した。吉田は概要次のように述べる。

 

第2次大戦中、外務省はその機能を著しく縮小し、大東亜省設置以降は極めて限られた活動の機会しか与えられなかった。在外公館も枢軸国と中立国にあるものをのぞき、極めて変則的な状況に置かれた。終戦とともに外交機能は停止され、外務省不要説まで唱えられる始末であった。そのような中、自分たちは外務省の存置を主張し、来たるべき外交再開の日に備えて外交官養成訓練の必要性を痛切に感じていた。このような問題意識に対して一般的には冷淡かつ無理解であった中、終戦翌年の3月1日にようやく外務官吏研修所の開設を見たのである。自分(吉田)は、研修所創設の当初からこの事業に関係しており、その重要性を最も痛切に感じていた。したがって、総理大臣在職中も公邸の一部を官補研修員の合宿所として開放し、彼らと接触する機会を持って研修事業の一端に微力を尽くした。平和条約発効後、諸外国との外交関係も復活し、在外公館も逐次増加しつつある。このような中、在外研修制度も復活し、研修所の事業もいよいよその効果を発揮する時代となった。戦前を顧みるに、我が国外交官がいろいろな点で欧米外交官に劣る点があったことは否めない。特に、敏感なる政治的判断力の弱さ、あるいは政治的な勘の悪さは最も重大な欠点の一つであった。この点につき、現在の研修所はよく研究して高度な政治的敏感性を持った世界水準の外交官を養成しなければならない。

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