BW_machida
2021/12/21
BW_machida
2021/12/21
初めて海に潜ったとき、変な音が聞こえたのではないだろうか。うなるような、かちかちというような、いろいろなものが混ざった音がぼんやりと聞こえただろう。しかし水面から出たあとで思い返すと、「何も聞こえなかった」、「僕たちの耳は水のなかで何かが聞こえるようにはできていない」、「聞こえたような気がしただけで、あの不協和音は幻聴にすぎなかった」などと考え直す。
だが実際、僕たちの耳は水中でも完璧に機能する。海の声、その一級品の物語をあなたは聞いていたのだ。そして、あなたが聞いていたその物語は、いくつもの海の物語が混ざり合ってできたものである。
海は音で満たされ、僕たちが生きている空気中よりもにぎやかだ。そもそも、音とは物質の振動である。水は空気より密度が高いために振動しやすく、音がよく伝わる。水中では音は光より遠くまで伝わり、弱まることなく何キロメートルも先まで届く。だから、海の声は誰が発したのかわからない遠くからの音が混ざり合ってできている。岸の上からでは想像もできないような音が、僕たちと、遠く離れた音の起源とを結びつけてくれるのだ。
水でいっぱいになった耳に聞こえる「ごぼごぼ」という音は、いわばいろいろな音を具材にしたスープだ。すりつぶされた野菜がポタージュのなかで混じり合っているように、さまざまな声が混じり合っている。花束を手にしたときにひとつひとつの花から匂い立っては消える香りをかぎ分けることができるのと同じように、僕たちは音を聞き分けることができる。オーケストラのいろいろな楽器のように、海から聞こえるそれぞれの声が、それぞれの音階と波長をもっていて、それぞれの音色で自分の物語を語っている。
いろいろな音色が混ざり合うことで、耳のなかをほどよく満たすような、海洋音響学者が「海洋環境雑音」と名づけた魅力的な音がつくりだされる。耳を傾けてみよう。
まず初めに、低音が聞こえる。水のなかでは低い音が背景音になる。うなり、とどろく音は、まるでいびきのようだ。最も強いこの音は、海岸で砕けた波や水面をなでる風、地球が時には気まぐれに鳴らしている音などのさまざまな要素が反響したものだ。極地の氷山のきしみや、海嶺に沿った地震の音、遠くの暴風雨の音も、このいびきのなかに含まれている。はるか彼方の天変地異のざわめきが、長旅で弱められながらも低い音として届き、海というオーケストラによるBGMをつくりだしているのだ。
マラカスのような音が鳴っているのも聞こえる。雨の音、水面の泡の音、つまり気体と液体が出会う音だ。
長いビブラートのかかったバイオリンらしき音も聞き分けることができるだろう。これは何十キロも越えて広がる、船舶のモーター音や金属音、スクリュー音だ。海上交通も、陸上の高速道路と同じくらい大きな音を立てるので、遠くでもその音が聞こえる。コンテナ船が通過する際には、飛行機の離陸に負けないくらいの音が鳴り、海上交通は、にぎやかな街路に匹敵する背景音を生みだす。
この騒音をかき消そうとするかのように、もっと美しい旋律も聞こえてくる。かき消すには力不足なのだが、フルートかトランペットのような響きだ。これはクジラの声のこだまである。
いろいろな意味をもったこのクジラの音楽は科学によって少しずつ解読されはじめている。愛の歌や、子クジラをあやすための子守歌、ごちそうのニシンを祝うための歌……それに加えて、単に音楽を楽しむためだけに歌うメロディーもあるようだ。
クジラの歌声だけがはっきりと聞き分けられることは珍しいが、どんな海でも、クジラの声は海の音のかなりの部分を占めている。クジラは、はるか遠くからでも音を伝え、海を越えて語り合うことができる。クジラは、離れていても語り合えるような水中電話を発達させたのだ。
クジラが契約したこの水中電話は、水温と水圧によって機能している。そもそも海水には、太陽に温められた海面近くの温水と、より深いところの冷水という二つの層がある。
二つの層の境界は「水温躍層」と呼ばれ、この層においては水温が著しく低下する。海水浴の最中に、水の底に流れる「冷たい水流」に足が触れたときに気づいたことがあるかもしれない。沖ではこの現象が拡大される。水温躍層付近ではわずか数十メートル潜るだけで20度も温度が下がるのだ。
この温水と冷水の境界で音がとらえられる。この境界のなかから音が水面に向かうと、温水の層を通る。温水の層では、水温が高いために音の速度が上がり、そうすると屈折が生じて音は海底へと向きを変える。音が海底に向かい、水深の深い場所に達すると、水圧が高くなることで同じく音の速度が上がり、同じく屈折によって音の向きが水面の方向に変わる。こうして、水温躍層の深さの水のなかに音がいわば閉じこめられる。クジラがこのサウンドチャネル内で歌うと、冷水と温水の境界である水温躍層の境界で声の向きが変わり、脇にそれたり弱まったりすることなく、垂直方向ではなく水平方向に何千キロメートルもまっすぐに伝わることになる。光ファイバーに閉じこめられた光が伝わるのと同じ仕組みだ。
地中海のナガスクジラは、SOFARチャネルと呼ばれるこの電話線を使って、お互いにセレナードを捧げ合ったり、2000キロメートルを超える距離からデートに誘ったりしている。
クジラの歌のメロディーを正確に聞き分けるためには、運よくちょうどいい場所にいないといけない。しかし、クジラの歌は海の周囲の音に混じっているので、頭まで潜りさえすれば海のあちこちで響いている歌を聞くことができる。クジラの研究者は、直接観察できるとはかぎらないクジラという動物の気配に耳を澄まし、希少な種類のクジラの生息数を計測する。そのために、海で鳴っている音を注意深く聞き取り、その性質を分析するという手段を使う。ラジオのそれぞれの周波数がそれぞれのチャンネルに割り当てられているのと同じように、それぞれの種が固有の声と波長をもっているからだ。
1989年、世界でいちばん孤独なクジラの呼びかけをハイドロフォン(水中マイクロフォン)が初めて受信した。あるクジラが、ナガスクジラに特徴的な歌声を発した。しかし、その周波数はチューバの最も低い音と同じくらいで、52ヘルツだった。ナガスクジラの仲間が10ヘルツから35ヘルツのあいだの周波数を用いてコミュニケーションをとっているのと比べると、高すぎる声だ。要するにこのクジラは、返事を期待できないのに、何十年も前から歌い、話しかけ、仲間に呼びかけているということだ。このクジラが広大な深海を孤独にさまようなか、海洋学者が観測に使うハイドロフォンだけが毎年その呼びかけを聞いていた。この奇妙な声がどこから聞こえてくるのかは誰も知らない。
このクジラについては、シロナガスクジラとナガスクジラとの雑種であると考える人も、形態異常であると考える人も、生まれつき耳が聞こえなかったために声の調子を修正することができなかったのだと考える人もいる。このクジラが巨大な海のなかで他のクジラと出会うことができたのか、他のクジラを見つけても話しかけられない状況で何を感じていたのか、その答えは誰も知らない。声を聞くことによって、この孤独なクジラがどこを回遊しているのかを毎年追跡することはできても、直接観察することはできなかった。この歌は、人間にとってはこのクジラの存在の唯一の手がかりなのだが、まさにその歌のせいで、クジラは仲間から孤立してしまっている。希望をこめて歌われつづけたこの歌は、太平洋の虚無へと吸いこまれていく。
あるとき、大西洋で、正体のわからない声を発しているクジラが発見された。それはたしかにクジラの一種なのだが、その種の個体はそれまでに一頭も発見されていなかった。音の構造の研究によって、そのクジラは、極端に臆病な動物であるアカボウクジラ科の一種であることがわかった。水面でも潮を吹くことはなく、船が近づくとあわてて深く潜ってしまう。奇妙なクジラだった。褐色で斑点のある長い胴体をしており、イノシシに似た牙をもっていることだけが観察できた、アカボウクジラの希少種のようだ。そのクジラは、水深3000メートル近くの深いところでイカを追いかけていた。この深さは海洋哺乳類では最高記録である。このように、つつましやかな動物たちの声を聞くことで、僕たちは彼らについて、彼らの行動についてよく知ることができたし、それが新しい種の発見にもつながった。海のなかにはたくさんの隠れた物語が存在する。誰かに自分の話を聞いてもらいたいのに、怖くて姿を現せないといった臆病な生き物であふれている。その孤独な響きのなかにいまだ明かされたことがない神秘を隠しもっている内気な生き物がたくさんいるのだ。
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