akane
2018/08/29
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2018/08/29
ジェームズ・コミー著『より高き忠誠 A HIGHER LOYALTY』より
国家情報長官、CIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局)、FBI(連邦捜査局)の各長官を乗せ、完全武装したSUVの短い車列が、マンハッタン中心部にそびえる金色に飾られた高層ビルに向かっていく。大統領就任式の2週間前、2017年1月6日のことだ。私たちはみな、その日の朝に空路でニューヨークに移動してきていた。ニューヨーク市警に先導された私たちの車列は、バリケードを抜けて、マディソン街と5番街のあいだの脇道に到着した。私たち一行は護衛に囲まれながら歩き、トランプ・タワーの脇道に面する居住者用のエントランスに入った。
5番街の待機場所にいた報道陣も、そこからさほど遠くない場所に集まっていたデモ参加者たちも、私たちに気づかなかった。それでも、比較的静かなトランプ・タワーの居住者用ロビーは、ものものしい雰囲気になった。エレベーターが2台必要なほどの数の情報当局高官とその護衛が集まっていたのである。エレベーターのひとつから、小さな犬を連れた女性が出てきた。冷え込んだ日だったので女性も犬も高価そうなコートに身を包み、ダークスーツ姿の男と武装した男たちのあいだをそそくさと通り抜けていく。国家の機密が収められ、施錠されたかばんを手にした高官たちは、丁重に小声で「すみません」と言った。
トランプ・タワーの前では連日、新政権でポストを求める人や高官たちが金ぴかのロビーを出入りするところが、リアリティー番組のようにテレビで生中継されていた。それに続いて、私たち、つまりアメリカ最大の情報機関のリーダーたちが、次期大統領と面会するためひそかに訪れたのだ。目的は、トランプの大統領選出を手助けしようとしてロシアが行ったことについて、本人に伝えることだった。
インテリジェンス・コミュニティ(政府内では「IC」と呼ばれる)の首脳部が、大統領選期間中のロシアの活動に対するアセスメント(ICA:インテリジェンス・コミュニティ・アセスメント)から得られた極秘の結果についてブリーフィングを行うのは通算3度目で、これが最後になった。このICAは、オバマ大統領の指示を受けて、CIA、NSA、FBIの分析官たちが、ロシアによる選挙干渉の全体像を政府当局者や次期政権に示すために、国家情報長官室(ODNI)の分析官とも連携して、1カ月を費やしてあらゆる情報をまとめたものだ。水で薄めたバージョンは、極秘扱いではないものとして一般向けに公開されていた。とはいえ、ICAの内容は充実したものだった。それは、われわれが何をどのようにして知ったかという情報源や情報の入手方法を含めて、最高レベルの機密に触れる情報を伝えるものであり、われわれがなぜ、ロシアが2016年のアメリカ大統領選に大規模に介入したという一致した見解を持つに至ったかを詳細に説明していた。このように、われわれが調査の結論に対して強い確信を示すのは異例のことだった。
4つの機関がかかわったこのアセスメントは衝撃的であるとともに、単純でもあった。ロシア連邦の大統領、ウラジーミル・プーチンが2016年のアメリカ大統領選に影響を与えるために広範な活動を指示していた、というものだ。サイバー活動やソーシャルメディア、国営メディアを通じて行われたその活動には、いくつもの目的があった。アメリカの民主主義のプロセスに対する信頼を損なうこと、ヒラリー・クリントンの評判を傷つけること、クリントンの大統領選出を妨害し、選出された場合に彼女の政権を貶めること、さらに、ドナルド・トランプの当選を後押しすることだ。
このICAに関するわれわれの最初のブリーフィングは、前日の1月5日、大統領執務室の現在の主に対して行われた。オバマ大統領とバイデン副大統領、ほかの政権幹部たちを前に、国家情報長官のクラッパーが、どのような調査が行われ、どのような結論に至ったか、またその根拠は何かについて詳しく説明した。大統領も副大統領もさまざまな質問をした。
オバマとバイデンはまるで違う個性の持ち主だが、温かく、兄弟のような、そしてときに周囲を苛立たせるふたりの関係が垣間見えるのは、こうした席での掛け合いだった。パターンはだいたい決まっていた。オバマが何度かのやりとりを通じて、議論を「A」に向けてきびきびと進めていく。すると、どこかの時点でバイデンが割り込む。「質問してもよろしいですか、大統領」オバマは丁重にそれを認めるが、その表情からは、これから5分から10分のあいだにわれわれの議論が「Z」に向かうことになるのはよくわかっているという気持ちがうかがえる。そして、辛抱強く話を聞いたあと、議論をもとの方向へ戻していく。
とはいえ、このブリーフィングでは議論の方向はぶれずにすんだ。長時間話し合ったあと、大統領は、ほかの人へのブリーフィングはどういう予定になっているのかと訊ねた。クラッパーは、情報問題に関して説明を受けている共和党と民主党の議会幹部8人、通称「ギャング・オブ・エイト」に翌朝会い、その後すぐにニューヨークに行って次期大統領と彼の幹部チームに報告することになっている、と答えた。
クラッパーはオバマに、トランプに注意を促さなくてはならない尋常ならざる案件がひとつあると説明した。それは、トランプに関するさまざまな疑惑が書かれた文書が存在するということだった。のちに「スティール文書」と呼ばれるようになるこの文書は、アメリカの同盟国の信頼できる元情報部員がまとめたものだが、内容の真偽は十分に確認されていなかった。文書には、いくつか常軌を逸した話も記されていた。そのひとつは、トランプが2013年にモスクワを訪れたとき、売春婦たちと異様な性行為に及んだというものだ。売春婦たちは、オバマ夫妻もかつて泊まったことがある高級ホテル、ザ・リッツ・カールトンのプレジデンシャルスイートのベッドの上で放尿したという。さらに、こうした性行為を、ロシアの情報当局が脅迫に用いるために盗撮していたという疑惑にも触れていた。クラッパーは、われわれはメディアが近くこの文書について報道するとみていて、そのためインテリジェンス・コミュニティが次期大統領に警告しておくことが重要であると結論づけたと伝えた。
オバマは、これらのどの事柄にもとくに反応を示さなかったように見えた。少なくとも、私たちには何も言わなかった。彼は平静な声でこう訊ねた。「この件についてのブリーフィングはどういう予定になっている?」
クラッパーは一瞬、私のほうを見てから、ひと息入れてこう答えた。「ICAのブリーフィングがすんでから、コミー長官が単独で次期大統領と会い、この文書について説明することにしました」
オバマ大統領はひと言も発しなかった。その代わりに、顔を左に向けて私を直視した。そして、両方の眉をはっきりとわかるように上下に動かし、ふたたび別のほうに目をやった。もちろん、無言の表情が何を言いたかったのかはいくらでも推測ができるだろうが、彼がグルーチョ・マルクス(訳注:濃い眉で有名なアメリカのコメディアン。マルクス兄弟5人のうちの3男)のように眉を上げてみせたのには、ちょっとしたユーモアと心配が込められていたように私には映った。「その件については幸運を祈る」と言っているように感じられた。そして、私の胃はにわかに重くなってきた。
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