2018/12/31
小池みき フリーライター・漫画家
『小やぎのかんむり』講談社
市川朔久子/著
「赤ちゃんは、親を選んで生まれてくるんですよ」。
そんな言葉を、あなたも一度くらいは聞いたことがあるだろう。愛しい子、あるいは親との絆をより感動的なものとして感じたい、という人にとっては耳に優しいキャッチコピーに違いない。
でもあなたはどうだろう? 「うんうんそうだよね」と素直に頷けるだろうか。
「あんな親、本当に選べるなら選んでねえよ」。
件のフレーズに、そう吐き捨てたくなる人が大勢いることを、私はよく知っている。そして、そんな気持ちを心の奥底に秘めたあらゆる年代の人に、『小やぎのかんむり』(市川朔久子)をすすめたい。本音を吐き捨てられなかった“あの頃”の自分に、ほっと一息つかせられるかもしれないから。
本書は児童文学だ。中学三年生の少女夏芽はサマーキャンプのため、とある田舎の古寺でひと夏をすごすことになる。そこで出会った幾人かの個性的な大人たちや幼い少年とのふれあいを通して、彼女は自分の心の問題に向き合うのだった……。
と、これだけ紹介するといかにもな「ひと夏のトリップもの」。でも実は、このあらすじからは予想できないくらい、実際に描きこまれている問題は重たい。というのも、夏芽がその寺をキャンプ先に選んだのは、暴力を振るう父親から逃げるためなのだ。
大会社に勤める立派なビジネスパーソン、かつ娘が塾をやめたいと言っただけで激しく殴りつけ、痴漢被害も「我慢しろ」と言い捨てるようなモラハラ男性。それが夏芽の父親だ。母親も、暴力こそふるわないものの気弱で、夏芽にけっして寄り添ってはくれない。味方のいない家庭と距離を置くために、夏芽はサマーキャンプに申し込む。
それだけではない。夏芽が寺で出会った幼い少年雷太もまた、母親から置きざりにされた子どもだ。しかも、その体にはあきらかに虐待の跡がある。
そう、本書のキーワードのひとつは、「親から子に与えられる暴力」なのだ。
だからこの小説には、さまざまな「加害者」としての親が出てくる。子どもを殴る親、子どものストレスを無視する親、そして「死なせてしまった」親まで。これは児童書では、とくにファンタジー要素のない現代物では比較的珍しいことだと思う。
作者は、どんな関係性の中でも暴力はけっして許されないことを、暴力を振るわれる側には自分の身を守る権利や逃げる選択肢があることを、丹念に、あくまで優しい文体で書く。登場人物たちを必要以上に裁いたりはしない。ただ、たとえ小さなものであっても、暴力は暴力であると表すだけだ。
たとえば、夏芽が父親に痴漢被害について訴えるシーン。夏芽は少し期待している。父親が痴漢に対して憤るなどして、自分の痛みに寄り添ってくれることを。しかしその想いは無残にふみにじられる。そのときの失望や悲しみを、私は夏芽と一緒にリアルに感じることができる。
とはいえ安心してほしい。これは児童文学だから、夏芽や雷太がそのまま放置されるようなことはもちろんない。
彼女は寺で、美鈴や穂村、タケじいといった頼れる大人たちや、除草用に連れてこられたヤギ、そのヤギの世話係である少年葉介などと交流し、あたたかい思い出を積み重ねていく。それが彼女の自尊心を引き出していく様子は、じわじわと嬉しい。
「子どもが自分で親を選ぶことなど、ありませんよ」
「親子は縁だ。ただのつながりだ」
「愛とか絆とか、そこに意味を持たせようとするから、なんだかおかしなことになる」
作中には、こんなセリフも度々登場する。親子だからいつかは理解し合わなければならないとか、親からの暴力は愛情に変換して受け取るべきだとか、そんな呪いを本書はきっぱりと否定するのだ。そこから始まる癒しと抵抗があることを、作者は確信しているに違いない。
暴力の存在と、それに対抗していい自分という尊い存在に気づくこと。それが、自分らしい人生を生きるためにどれだけ大事な気づきであるか、多少なりとも苦難を乗り越えてきた大人ならみんな知っているだろう。そして、子どもたちにも同じことを知っていてほしいと願うはずだ。その強く優しい願いが、この小説には詰まっている。南青山の児童相談所建設問題について議論が続く今、「子どもに必要なサポートとは何か」を考えたい人にも読んでもらいたい良質な一冊だ。
『小やぎのかんむり』講談社
市川朔久子/著