2021/01/13
長江貴士 元書店員
『CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見』文藝春秋
ジェニファー・ダウドナ+サミュエル・スタンバーグ/著 櫻井祐子/翻訳
2020年のノーベル化学賞は、「CRISPR-Cas9(略してCRISPR(クリスパー)と呼ばれている)」という技術の開発に携わった二人の女性科学者に贈られた。2012年に発表されるやいなや、世界中にあっという間に広まり、今や生命科学の研究に不可欠となった、魔法のような技術だ。どれほど魔法なのか。「クリスパー」という技術は、こんな風に称賛されているという。
先進的な生物学研究所で数年かかったことが、今では高校生が数日間でできる
この表現で、「クリスパー」の凄まじさが少しは分かっていただけるだろうと思う。この技術が開発されたことで、生命科学の分野は一変したと言っていいだろう。
「クリスパー」は、遺伝子編集技術である。「クリスパー」の登場以前にももちろん、遺伝子編集技術は存在した。しかし「クリスパー」は、手軽さと安さという意味で、それ以前のどんな技術もまったく及ばない。それまでの遺伝子編集技術は、かなりの専門知識と手際みたいなものが要求される、要するに「職人仕事」と言っていいものであり、なのに精度は低かった。しかし「クリスパー」は、手軽で安価な上に、精度も恐ろしく高い。「クリスパー」が発表されてから1年後には、中国の研究チームが、28億もの塩基(DNAを構成する主要な成分)の内、たった1つだけを書き換える遺伝子治療に成功した。「クリスパー」以前の技術では、28億もの塩基の中の狙った1つだけを書き換えるなんて離れ業は、不可能だったと言っていい。
遺伝子編集技術は、我々の生活にも大いに関係する。例えばがん治療。「クリスパー」を使って直接がんを治療するわけではないが、「クリスパー」を使うことで、がん治療の研究を早めることができる。これまでは、「ある特定の変異を持つマウス」を作り出すために、何世代もマウスを交配させるという時間の掛かる作業をしなければならなかった。しかし「クリスパー」があれば、遺伝子をちょいと操作してやればいいだけなのだ。
また、「どの遺伝子が何と関係しているのか」ということが、長年の研究によって徐々に分かってきている。例えば、「APOE遺伝子」はアルツハイマー病と、「IFIH1遺伝子」と「SLC30A8遺伝子」は糖尿病と、「DEC2遺伝子」は睡眠時間の短さと関係しているという。今後研究が進むことで、例えば「アルツハイマー病の患者に対しては、APOE遺伝子の除去手術を行えばいい」と判明するかもしれない。そうなった時にもし「クリスパー」がなければ、治療法が分かっていても実行できない、ということになるだろう。
現実にはまだ、「クリスパー」を人間に使ったことはほとんどない(「クリスパー」を使った治療をしなければ恐らく亡くなってしまうだろうという緊急の状況で使われた事例がいくつかあるだけだ)。とはいえ、遺伝子に原因のある病気を患っている人には可能性を感じさせる話だろう。そういう「単一遺伝子疾患(一つの遺伝子を原因とする病気)」は、実に7000以上も知られているという。これまでは治療不可能だった病気が、「クリスパー」によって治療出来るようになるかもしれない。
そんな「クリスパー」がどのように生み出されたのかを、発見者の一人である著者自身が辿っていく内容だ。
実は著者は、遺伝子編集技術とはまったく関係のない研究をしていた。動物や人間を研究対象にしていたわけでもない。彼女は、「細胞内で働くRNA」という、実に地味なテーマの研究を続けていた。しかし結果的にそのことが、「クリスパー」の発見に繋がっていくことになる。
「クリスパー」以前に存在した遺伝子編集技術がどのように開発されていったのかということはここでは触れないが(本書には詳しく書かれている)、「クリスパー」以前の編集技術に足りなかったのは、「ここぞ!という場所で切断する技術」だった。これが実現できれば見事な遺伝子編集技術になると分かっていたが、誰も開発できなかった。
さて、著者は、そんな遺伝子編集技術とは関係なくRNAの研究をしていたのだが、そんな折、ある女性科学者から、「クリスパー」について研究しているという話を耳にした。ここでいう「クリスパー」というのは、遺伝子編集技術のことではなく、「バクテリアが持つ、短い回文のような繰り返し構造を持つ、DNAのある領域」のことだ(もちろんこれが後に遺伝子編集技術の名前の由来となる)。ややこしいのでこの記事の中では、遺伝子編集技術を「クリスパー」、回文のようなDNAの領域を「CRISPR」と表記することにしよう。余談だが、「CRISPR」を最初に発見したのは、日本の石野良純博士らだったという。
著者は、「CRISPR」のことはよく知らなかったが、その奇妙な構造に興味を惹かれて調べることにした。するとどうやら、彼女の専門分野であるRNAとも関係しそうだということが分かり、この女性科学者との共同研究を決める。
その後、この「CRISPR」というのは、「分子の予防接種手帳のような役割」を果たしていることが分かってきた。細菌が、過去に感染してしまったウイルスの記憶を「CRISPR」に保存しており、その情報と照らし合わせることで、侵入してきたウイルスを破壊すべきかどうか決断する、というような免疫機能だったのだ。
そしてこの「CRISPR」の近くに必ずある遺伝子が決定的に重要だった。cas遺伝子と呼ばれるもので、その中には様々なcas酵素が存在していた。しかし、当初著者らが調べていたのは「I型」と呼ばれる種類の酵素で、実は「II型」も存在していたのだが、そちらは「I型」以上によく分からないままだった。
しかしここでまた運命の出会いを果たすことになる。著者はエマニュエルという女性科学者(このエマニュエルが、ノーベル賞を共同受賞した人物)と出会うのだが、彼女がなんと「II型のcas遺伝子がウイルスを切断する仕組み」を研究していたのだ。そのお陰で「II型」にも興味を持つようになった著者は、エマニュエルと共同研究をスタートさせ、その結果として、「どんなDNA配列であっても適切な場所で切断するプログラム」を作り上げることに成功した。こうして、それまでの遺伝子編集技術に、この切断プログラムを組み込み、「クリスパー」が完成したのである。
しかし、そんなものを作ろうとまったく思っていなかった彼女は、自身が生み出してしまった「クリスパー」という技術のあまりの手軽さに脅威を抱きもする。というのも、悪用しようと思えばいくらでも出来るからだ。テロリストが簡単に生物兵器の開発が出来てしまうかもしれない。また、遺伝子編集技術は倫理的にも様々な問題を引き起こしうる。実際的には、出生前の赤ん坊に対しても遺伝子編集が可能だ。しかしそれは倫理的に許されるだろうか?倫理的に許されなくても、それが可能になってしまう技術を自分は生み出してしまった。
そういう葛藤もあって彼女は、「クリスパー」という技術を科学者だけでなく、一般社会に対しても正しく啓蒙するような活動に足を踏み入れるようになっていく。著者自身は根っからの研究者で、「実験室で作業をしたり新しい実験を進めたりする方がずっと好きだった」と書いている。人前に出て科学界を先導していくような役割に違和感を覚えているのだ。しかし、自分が生み出した技術が悪用されては寝覚めが悪い。自分が行動するしかない、と決めたのだ。本書には、そんな著者の葛藤も描かれている。
遺伝子編集という点においては、人間は神の如き能力を手に入れたと言っていい。しかし、人間は神ではない。「出来ること」と「やっていいこと」の線引きはきちんと持ち続けなければならない。
そして、科学者だけにその線引きを任せていいということにはならないだろう。「クリスパー」という技術はまた、我々一般人も、科学技術の使用に対して意識を向けなければならないということを改めて強く認識させるものだと言っていいだろう。
『CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見』文藝春秋
ジェニファー・ダウドナ+サミュエル・スタンバーグ/著 櫻井祐子/翻訳