言葉が一切の力を失った世界の、深い叡智と真実を宿す瞳

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『内なる町から来た話』河出書房新社
ショーン・タン/著 岸本佐知子/翻訳

 

 

たとえば、これはあくまで「たとえば」と前置きのいる話ではあるのだけれど、これから記す物語に耳を傾けてほしい。「ありえない」だとか「想像しえない」などと思ったとしても、最後まで物語を見つめてほしい。
真実とは心地よく鼓膜を震わせるものばかりでは決してない。想像を絶するような残酷さと、鋭利な刃物で切り裂く残忍さを持ち合わせたものだ。しかし、目を背けていてはどこにも辿り着けない。崩れゆく世界に置いてきぼりにされるのは、あなただって望んでいないでしょう?

 

物語の主は動物たちだ。彼らは規則正しくリズムを刻む心臓と鋭い牙を持ち、いつでも飛び立てるように筋肉を収縮させながら「私たち」を見つめている。何も語らず、何も奪わず、ただ私たちの傍らですべてを見つめ、記憶している。

 

高層ビルの一角、八十七階にワニが住んでいる。数多の企業が入居し、金融街を一望できるそのビルには、「ワニ」と表示されたエレベーターのボタンがある。にも拘わらず“本当に”ワニが住んでいるなどと考える人は誰ひとりとしていない。その存在を知るものは、都市プランナーやビル清掃員などのごくごく一部の人間のみだ。
我々は、忙しい。目の前を通り過ぎていくヒト、モノ、カネカネカネ――それらを追いかけることにほとんどすべての時間を費やしている。際限なく繰り返される仮想の現実に踊らされ、惑わされていることに気がつかないまま。
ワニたちは知っている。八十七階の一室で、適切な温度と適度な湿気が保たれ、きれいな水と泥が誂えられた特別な部屋で、悠々自適に暮らしながら見つめている。幻想に魂を奪われた人々の青ざめた面立ちを。内側から毒に侵され朽ち果てていく人々の影の薄暗さを。

 

ランチタイムにやってきたのは蝶だ。集まった蝶の数を数えることなど到底できない。何百万、何億万、何兆――いや、それすらきっと追いつかないほどの膨大な数だった。色とりどりの蝶が舞い、ピンクやブルー、エメラルドグリーンやイエローの羽ばたきが空を埋め尽くす。極彩色の雲はたゆたい、流れていく。
思わず通りに飛び出した人々が手を伸ばせば、軽やかな羽に触れることができ、光輝く鱗粉がふわりと舞い上がった。こんなにも蝶が、人々が集っているのに、しんと静まり返った空間で蝶たちの羽ばたきだけが鳴り響いている。この光景を前にして、人々は神聖なものを敬うように小さな声で語り、脳内にこだまして止まないおしゃべりな思考も、今このひと時だけは鳴りを潜める。この光景が少しでも長く続きますように。それだけがこの場所に集まった人々の唯一の願いになる。

 

カエルになった重役たちが、テーブルの上でひっくり返っている。自らの力で体勢を立て直すこともできず、手足をばたばたと動かしながら。何度もこの場所に飲み物を運んできた秘書は、唐突に自分の役割を知り、そして悟る。これからは、カエルに水を与えることが使命になる。カバンにそっと仕舞われたカエルたち。これからどうなるのかは、誰にも分からない。
出会った瞬間、所かまわず愛を交わしはじめるカタツムリ。「ワイセツだ」と、「不純である」と人間たちは声を荒げる。けれど、カタツムリたちが身をくねらせ混じりあう姿は、愛の体現そのものであった。カタツムリたちのダンスを引き裂いて、いつか後悔するのは我々の方だった。発光しながら、溶けあうように絡まり合うあの姿は、愛と呼ぶにふさわしいものだった。愛が消滅した世界には、永遠に埋まることのない空白が生じる。私たちが差し出せる崇高な愛など、どこにもない。
人間を訴えるクマを排除したところで、手遅れだった。クマのあとには牛たちがやってくる。次々と列をなす動物たちの姿が、弁護士を引き連れ法廷へと向かう動物たちの冷ややかな視線が、すべてを物語っている。我々は、越えてはならないラインをとっくの前に越えてしまった。奪い、所有してきたものを今さら返上しても、補償になどなりはしない。奪った命の数々は、何をもって償うことができる?
空に浮かぶきらめく空魚も、眠りの最中に現れる陽気なキツネも、たくさんの名前をもつ猫も――すべてすべて、知っていた。私たちが犯してきた愚かな行為の数々を。悪しき行いの内実を。もう逃げられない、もう誤魔化すことはできない。私たちは崖っぷちで、今にも崩れそうな地面の上に立ち、ごうごうと荒れ狂う風に足元を晒されている。
懺悔を胸に抱き、信仰を心に据え、風に乗って飛ばされていく。そんな風に身を委ねれば、あらたな世界でやり直すことができるだろうか。

 

動物たちは今なお見つめている。言葉が一切の力を失った世界で、変わらずに見つめ続けている。深い叡智と真実を宿す瞳が、私たちの内側をじりじりと暴き出し、眼前にずらりと並べられた証拠は、舌なめずりをして、その時を待っている。

 

これは、“内なる世界”からの最終警告だ。扉は、そう遠くないうちに永久に閉じられるだろう。間に合わなくなる前に。閉ざされてしまう前に。今ならまだ、間に合うだろう。

 

動物たちが、私たちを見つめることをやめてしまうその前に。

 

『内なる町から来た話』河出書房新社
ショーン・タン/著 岸本佐知子/翻訳

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれの水がめ座。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。1万円選書サービス「ブックカルテ」参画中です。本の声、きっとあなたに届けます。

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