2021/02/04
藤代冥砂 写真家・作家
『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』光文社
マルコム・グラッドウェル/著 濱野大道/訳
社会派の濃密な群像劇映画を見終えたような読後感だった。
アメリカでは有名なノンフィクション作家で、国民的という意味で日本の村上春樹的に知られた存在らしいのだが、私は彼の著作を読むのは本書が初めてだった。
簡潔な文体は、私の好みでもあるので、注釈を入れて450ページにも及ぶ大作を、数日で読み終えてしまった。そう、まさにネットフリックスのシリーズドラマにハマるかのような感じで。
本書の主題は、見ず知らずの人とどうコミュニケートするか、というシンプルなものだ。これは公私に関わらず、誰もが抱える問題だろう。
グラッドウェルさんは、ヒトラーを善人だと勘違いしたネビル・チェンバレン、若い黒人女性、大学のフットボールコーチ、カリスマ投資家、テロリスト、医者、社交パーティなどのエピソードを丹念に取材し、そこに共通する間違いと答えを導こうとする。
これらは、現代アメリカ社会の断面というよりも、現在の世界全体の断面として生々しく読む者の心に迫るだろう。それは韓国映画がよその国のお話としてではなく、自分の文化や個人的な内面の中にも見られる共通項として立ち上がるように、本書が描く往々にして残酷な現実には、それぞれに深く考えさせられる。
他人と接する時、自分と相手との間に何が生じるか。
そこには、いくつかのパターンがあることを本書は前述した様々なケースを通して見せてくれるのだが、中でも私が惹かれたのは、トゥルース・デフォルト理論だ。
これは、人は相手を信用するように初期設定されている、という理論だ。犯罪の後で、「まさかあの善良そうな人が、」というコメントをよく見るだろう。まさにこれがデフォルト理論で、性善説みたいなものだ。
見知らぬ人に対して、意外と人は信じようとする。まるで相手への疑念が自らの心の貧しさを表すように思え、ゴミを捨てるようにその感情を手放して、相手には悪意がないと思い込もうとする癖が人にあるというのだ。
面接などは、データだけでなく実際に会うことでよりその人を正確に評価できるという前提で行われているのだが、その正確性はかなり怪しく、データなどでの客観的な判断と比較すると統計的には劣る。一旦、この人はいいなと思うと、すでにデフォルト理論から逃れることは難しくなる。地位や権威のある人の犯罪の発見が遅れるのは、まさにデフォルトが働くからで、それは分かりやすいのだが、そいういった裏付けがない人に対しても、大丈夫な人だろうと思い込もうとするのは、その方がトラブルに巻き込まれないだろうとする雰囲気に流されているからだ。
本書には、他にも様々な他人と接する場合の起こるパターンを、理論と結びつけながら、ミステリー的な手法を用いたエンターテイメントとして読者の届けることに成功していると思う。
作者がはっきりと述べているように、社会学と一般の人々を壁なく結びつけることを彼は表現の目的としているように、読み始めると、知らない間にしっかりと考えさせられている。
そして、見知らぬ人への判断力へのサポートを得た気になる一方で、その視線は自分へも向けられた。見知らぬ人として、自分を見つめる。そこに何が生じるのだろう。いい奴と思えるのか、悪い奴と思えるのだろうか。多くの人は、どちらもあると答えるだろう。そこには自己評価を先延ばしして有耶無耶にするという新たなデフォルトがあるような気がする。
『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』光文社
マルコム・グラッドウェル/著 濱野大道/訳