2021/01/29
三砂慶明 「読書室」主宰
『ぼく自身のノオト』創元社
ヒュー・プレイサー著、きたやまおさむ訳
心が波立って眠れないときがあります。
仕事でうまくいかなったときや、何気ない言葉で人を傷つけてしまったとき、ああすればよかった、こうすればよかったという、考えてもどうにもならない後悔の記憶が押し寄せてきて、目の前のことには手がつかず、しかし、肝心の迷惑をかけた人には連絡をとることもできない。こういうとき、私はぼーっとして、心の波がおさまるのを待つか、布団に寝転んでまんじりとしながら、ただただ天井を見ています。こういうときに、うまく自分の感情が言葉にできれば楽になれるのにな、と思っていました。どうしてそれができないのだろう。
『ぼく自身のノオト』を読んで、それがはっきりと言語化できるようになりました。
「ほとんどの言葉は外の世界を描写することによって発達してきたのだから、ぼくの内面におこることを述べるには当然不十分である。」
なるほど。
そうだったのか、とふに落ちました。
本書は1970年、まだ著者であるヒュー・プレイサーが、32歳で、無名で、肩書きもなかったときに、アメリカ南西部にある小さな出版社から、大した広告もせずに発表されたデビュー作です。
「人間どうしの世界で『最良』などというものはありえない。」
という本書の一行があらわしているように、当時のアメリカは、ベトナム戦争や核兵器、高度資本主義社会が生み出した格差などが嵐のように吹き荒れた時代でもありました。
この本は小説でもなければ、詩集でもありません。
その時代に生きた、一人の平凡な人間がつけた日記の抜粋です。
それが、読むほどに心にしみてくるのは、それは時代も人種も関係なく、私たちが同じ人間であり、同じ困難を抱えているからなのだと思いました。
「だれも間違ってなどいない。せいぜい、だれかがよく知らなかったということがあるくらい。もしぼくがある人のことを間違っていると思ったなら、それはぼくと彼のうちのどちらかが何かを見おとしているのだ。」
日々のささいな苛立ちを、うまくいかない人間関係をどうすれば、よりよくできるのだろうか。悪戦苦闘は矛盾していて、しかも答えもありません。
読んでいて笑ってしまったのは、
「ぼくとローレルとの友情も、新たに芽ばえていく友情がいつもたどる段階を弁証法みたいにたどっているらしい。最初ぼくたちはお互いの長所だけを見ていた。今、ぼくたちはお互いの短所だけを見ている。もしぼくたちがこの後の段階をうまく切りぬけたら、ぼくたちは多分お互いを見ることができるようになって、本当に友達になることができるかも。」
プレイサーとローレルは友達になれたんだろうか?
この本が美しいのは、その美しさを読者に気づかせない、きたやまおさむの名訳です。
この本は、はじめ1980年に人文書院から刊行され、いつしか手に入らなくなり、ついで日本教文社から2001年に刊行され、それも絶版となり、2021年創元社からふたたび復刊されました。
現代によみがえった、きたやまおさむの名訳もさることながら、そのきたやまに改訳を思いとどまらせるほど、作品そのものを深く表現した中田いくみのみずみずしい表紙は、完璧です。この表紙に目がとまったら、ぜひ、一ページ目をめくってみてください。
そこできっと、自分だけにしかわからない素顔の自分に出会えるはずです。
『ぼく自身のノオト』創元社
ヒュー・プレイサー著、きたやまおさむ訳