2022/03/23
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『旅する練習』講談社
乗代雄介/著
あの春に――そう、はじまりは春だったのだ。
突然の外的要因によって閉じ込められた私たちは、立ち止まってしまった場所を「居場所」とし、じっと嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
あの日々にいったい何の意味があったのだろう。通り過ぎていった季節を思い返しながら今さらながらに思案する。答えはすでに胸の内にあるようだが、言葉にするには遥か光年とも思える時間を要するように思う。
けれども、二人が辿った物語に触れることで、あの時期に蒔かれていた種の息吹をふしぎと感じられるような気が
小説家の「私」と姪の「亜美」は二年前の春に、千葉県から茨城県にある鹿島アントラーズの本拠地まで歩いて旅に出ることになった。
亜美は小学校を卒業して、中学校に上がる大きな節目の時だった。誰もが懸念していた中学受験を見事突破した亜美は、まっさらなミズノのモレリアを大切に抱き――
彼女はサッカーを愛し、またその能力も十分に持つ少女なのだ――
溢れんばかりの希望の、真っただ中にいた。
一方、小説家の私は人気のない風景を描写することが趣味であり仕事である。姉の子供の亜美がサッカーの練習に気安く誘える大人は、おそらく私くらいのものだっただろう。亜美からの誘いで、河川敷で過ごした時間は思いのほか多い。
しかし、瞬く間に立ち込めた暗雲が、春休みの計画も日常の暮らしですらも、容赦なく奪い去った。未知のウィルスによってほとんどすべての選択肢を取り上げられた我々は、ようやく見つけた方法から二人にとって最善のルートを見つけ出した。
それは、目には見えない脅威への宣戦布告ののろしであったかもしれない。
亜美は、以前にサッカー合宿で泊まった合宿所からこっそり持ち帰った「めちゃくちゃおもしろかった」(本を読まない彼女にしてはめずらしい感想だ)という本の返却をするために。小説家の私は、歩く道すがら目に留まった風景を描写し言葉に置き換え日々を刻むために。
歩く、書く、蹴る
練習の旅
サッカー少女と、小説家の私の旅。
二人は、我孫子駅から鹿島アントラーズの本拠地を目指して歩き出した。
小説家の私は、文豪たちの面影とその物語の中で見た風景を想起しながら、目の前に現れた現実を書き留める。その傍ら、亜美は安全な平地を見つけ熱心にリフティングに励むのが常だった。偶然目にした真言を魔法の呪文のように唱えてするその回数は、旅が進むにつれ順当に回数を重ねていった。
夕方までにホテルに着くという約束を果たし、
亜美が読んでもいいと言った日記が一つでもあることは後に、
旅の道中、川のほとりに集まる鳥たちは、二人の旅を思い返す時にハイライトとなる大きな意味を持つものとなった。
「ハクチョウもカワウも、ちゃんと生きるために工夫してんだねぇ。でも、あたしはカワウの方が好きだな」
「だってさ」
「魚を獲るために生まれたみたいでかっこいいじゃん」
私へ疑問を投げかけた後に、亜美が発した言葉。
この旅でいたくカワウを気に入った亜美は、羽根を乾かす姿を自分のシュートが決まった時の決めポーズにすると、胸を高鳴らせていただろう。
旅は道連れとは、よく言ったものだ。
手賀川と利根川の中間を走る成田線の木下駅辺りを目指す旅の二日目。県道4号を歩き、木下万葉公園で木下貝層を見、各々の練習に取りかかろうとしていた時、亜美が何かを発見し叫んだ。
メガネをかけた若い女性、臙脂色の服を着、そのリュックにはアントラーズのキーホルダーが付いていたのを亜美は見逃さなかった――と、貝層での束の間の出会いののち、オムライスを食べたいという亜美の必死の願いの末に立ち寄った喫茶店で再び出会い、“ジーコ”が結んだ強力なご縁のもと、三人でカシマスタジアムを目指すことになった。
その夜、亜美がみどりさんの部屋で書いた日記は明らかに手伝ってもらったと分かるほどよく書けたものだった。よほど嬉しかったのだろう――すぐにそれを見せに来てくれたから、私はその内容について物語の中に記すことをためらわない。
三日目は三人で利根川の堤防から佐原までひたすらに歩いた。その距離は約30キロで、旅の中では一番過酷で不安なルートだ。
ツグミ、菜の花、ヤナギ。春の芽吹きをそこここに感じながら進む道中、時折遭遇するカワウにやはり亜美はいちいち関心を寄せる。
自由奔放な亜美と対照的に、決められた道をただ歩んできたというみどりさんの顔にはどこか陰りがある。けれど、亜美の底抜けの明るさはみどりさんを思いもよらぬ力強さで励まし、みどりさんの何気ない言葉は亜美の未来を明るく照らす糧になる。そうであったのだと気づく時、もうあの時間は二度と過ごせないのだと痛みとともに思い出すとしても、その事実が変わることはない。
別れは突然だった。しかし、亜美の内側からまっすぐ放たれる生命力の強さが残酷な現実を打ち砕いた。やさしさを持つ者の宿命とも言える弱さゆえに、私たちのもとを去ったみどりさんとの再会は、ぐっと涙を堪え自らを信じて進んだ亜美自身が引き寄せたもので、亜美が大人になった瞬間でもあった。
最後に三人で訪れた場所は、かつては防人や武士が武運を願いながら訪れたとされる鹿島神宮だった。
「それだと、旅の終りが始まりになっちゃうじゃん」
「ステキじゃない」
奇跡を信じ手繰り寄せた希望を確実に手中に収めるためには、それが「筋」とは違うことであったにせよみなにとって必要な儀式だった。
いったんお別れ、でも忘れない。そしてまた会おう。言葉にせずとも互いの心で言葉を交わし合っていた彼女たちの姿には、必ず再会を果たすという強い決意があった。
「これが最後の練習だな」
「この旅ではね」
三月九日に始まった練習の旅は三月十四日に、海の風景の描写で綴じられる。
誰もいない砂浜には、亜美の名前の由来となった「アビ」が防波堤内にぽつんと浮かんでいる。風が吹く中、いつもと変わらずボールと戯れる亜美は、小説家が彼女の様子をつぶさに見つめ書き留めていることを知らない。振り返り私を見るその瞳には小説家の私ではなく「にいちゃん」としてのただ一人の凡庸な男である私が映っていたことだろう。
しかし、私は小説家だから、書きつづけねばならなかった。
この旅で風景を書くときはいつも亜美がそばにいた。
私がこの目で見た亜美の姿が、同じように流れる言葉が、あの時はこらえていたはずの感動が、あの浜へ私を飛ばして手が止まる。そのたびにまた会えるけれど、もう会えない。この練習の息継ぎの中でしか、我々が会うことはない。
二人の「練習の旅」は有終の美を迎え、盛大とはいかずともささやかな拍手をもって祝われるべきものだった。
それぞれが旅で得たものは人生を豊かに彩り、またこれからの道のりを明るく照らすものでありつづけるはずだった。
物語の結末をここに記すことを私はしない。それは、小説家の「私」
その代わりに――代わりになんてならないと分かっていても、私は二人の旅を何度も何度も思い返す。二人が見た景色の美しさを、二人が過ごした時間の掛値ない素晴らしさを想像し、二人の旅がせめて私の中だけでも永遠に終わらないことを願う。
あの日々は、もう物語の中にしかない。
こんなにも痛みを感じながら、なぜ私たちは物語を欲し、また紡ごうとするのだろう。それは、私たちがすべからく「物語」を抱えているという宿命によるものであるだろうけれど、それだけではどうやっても説明はつきそうにはない。
思いのほか命は脆い。たとえそれが運命であったにせよ肉体を持たなくなることは、私たちを悲しみの底に突き落とすものだ。
けれども。いやだからこそ、だろうか。少女の言葉の端々に宿る真実が心を貫く。
「この旅では、最後」「終わりがはじまり」
彼女が世界に放った言葉に泣いてばかりの私は、そうなんだってまた静かに涙をこぼしてもいいだろうか。
あの春から二年の間に、私は強くもなったし、弱くもなった。閉じ込められたことを良い契機と捉え、一層内側に潜ることを選んだ私は、物語の中に入り込むことと引き換えに置き去りにした現実があったように思う。
けれど、“こちら”に舵を切ったからこそ、受け取れた景色がたしかにあった。
打ち捨てた数々のものと引き換えに出会えた大切なものの一つには、間違いなくこの物語と、それに対峙した時間が含まれる。
二人の物語を、忘れたくないと願ったのは私の方――私の方。
だからこそ、人生という名の練習の旅をつづけながら、私は私のやり方で受け取った物語とともに歩いていく。
ともに、生きていくから。
『旅する練習』講談社
乗代雄介/著