芸術の核心――西洋の肉体観と日本的美意識|谷川渥『肉体の迷宮』

馬場紀衣 文筆家・ライター

『肉体の迷宮』
谷川渥/著

 

 

本書で取り上げられるのは、芸術問題としての「肉体」の複雑なありようである。芸術において肉体が問題視されるとき、私たちは芸術のもっとも核心的な場所に触れることになる。

 

詩人で彫刻家の高村光太郎は、20代の時にフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンに憧れてパリにあるロダンの住まいを訪ねた。結局、本人には会えなかったがアトリエで数多くのデッサンを見たそうだ。帰国後に書かれた『根付の国』という詩は、自己の眼差しを西洋人の眼差しと重ね合わせて詠まれた作品で、そこには徹底したまでのネガティブな日本人像が投影されている。光太郎はパリで近代ヨーロッパの彫刻理念、ひいてはその背後にある西洋の肉体観を目にしたのだろう。

 

本の中から、もう一つ紹介したい。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に、谷崎が自身の母親を想起する文章がある。「わたしは母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えてゐるが、胴体については記憶がない。」思い出のなかの母の姿に胴体部分が欠けている理由は、続く文章を読むと理解できる。谷崎の連想によれば「あの胴体は衣装を着けるための棒」でしかなく、昔の日本の女性の姿は「ほのじろい顔一つあれば、胴体は必要なかつだのだ」。

 

興味深いのは、このような視線が必ずしも谷崎に固有のものではないということ。戦前の日本に滞在したドイツ人のC・H・シュトラッツの記した日本人の裸像がそのヒントを教えてくれる。シュトラッツによれば、日本人は芸術においても生活の場面でも女性を観察する際に顔と姿のことしか考えていないそうだ。日本人は裸体というものを見まいとしている、と彼は述べている。

 

「人間の美に関して日本で広く行われている考え方は、女においても男においても、目鼻立ちの判断、物腰、および衣服をもって構成されている。」

 

それでは、西洋における肉体表現とはいかなるものか。その根底にあるのが、二つの思想だ。一つは比例(プロポーション)の思想。人体の理想的比例としての「カノン」や「黄金分割」などである。古代ローマのウィトルウィウスの「正方型人間」では、人体の各部分間の比例がそのまま建築の分野へと転移されたこともここに強調したい。

 

もう一つの思想は、量塊(マッス)である。著者によれば、量塊としてそこに現前しているということは、彫刻においてもっとも重要なことらしい。本書では、着物を身につけていながら身体が透けて見えるように美しい膨らみをもたせた「濡れ衣」を彫刻の例に挙げて、西洋の伝統的な肉体表現にとって量塊がいかに大事であるかを説明する。

 

彫刻家としての高村光太郎の苦労とは、比例も量塊の思想もない日本に、ロダンに集約される西洋近代の彫刻理念を移植しようとしたことにあったと著者は述べる。しかし、この苦悩の中から日本的美意識が生まれたと考えることもできそうだ。日本人の芸術史における肉体の希薄さからはじまるこの本は、その後、人形と彫刻の差異や20世紀における異形の肉体の復権へと展開されていく。肉体の迷宮はまだ始まったばかりだ。

 

『肉体の迷宮』
谷川渥/著

この記事を書いた人

馬場紀衣

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文筆家・ライター

東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。

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