迫害と軟禁を逃れ、アメリカへ亡命したチベット人夫妻のドキュメンタリー

長江貴士 元書店員

『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』集英社クリエイティブ
小川真利枝/著

 

画像:Unsplash Daniele Salutari撮影

 

本書によれば、日本に限らず世界中のメディアにとって、チベット人の問題は扱いが難しいそうだ。強国となった中国に忖度しなければならないからだ。1949年に毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言してすぐ、「チベットを解放する」という名目で中国人民解放軍が東チベットへ侵攻した。その時からチベット人の苦悩はずっと続いている。チベットからインドへと亡命したダライ・ラマ十四世がたどり着いたダラムサラの町は、すぐにチベット人にとっての聖地となったが、近年、インド政府が政治的な立場を変えたことで、チベット難民たちの理想郷も奪われつつあるという。

 

世界はチベット人の問題を知らず、中国はチベット人に正しくない情報を伝えている。そんな状況を変えたいと考えた一人の男が、2008年の北京五輪の直前にとんでもないことをやってのける。逮捕・拷問の可能性がある中でインタビューに協力してくれたチベットの市井の人々に、「五輪についてどう思うか?」と問う『恐怖を乗り越えて』という映画を極秘裏に撮影・公開したのだ。このニュースはすぐに世界に配信され、男が逮捕されたことで、皮肉にもこの映画は世界中の人の目に触れることになった。男は「国家分裂煽動罪」の罪で6年の刑期を言い渡される。釈放されてからも自宅軟禁状態が続いていたが、公安の目を盗んでアメリカへの亡命を成功させ、2017年12月25日、10年ぶりに家族と再会できた。

 

男の名はドゥンドゥップ。そして本書は、そんなドゥンドゥップの妻であり、夫の逮捕を機にダラムサラで難民となってしまったラモ・ツォを、長年に渡って追い続けた日本人ドキュメンタリー作家による初の著作だ。チベットを扱ったドキュメンタリー映画を撮影するためテレビの制作会社を辞めた著者は、撮影の地と定めたダラムサラで彼女と出会った。「政治犯の妻」とは知らず、パン売りの女性として知り合ったのだ。ラモ・ツォの佇まいに惹かれ、彼女を長年に渡って撮り続けた結果、「フリー・チベット」抗議活動の中核となり、獄中で「国際報道自由賞」を受賞し、世界的な注目を集めていたドゥンドゥップの単独インタビューにも成功する。彼の口から語られる獄中や亡命の現実は、国家ぐるみで臭いものに蓋をしようとするものであり、絶望や嫌悪を抱かずにはいられない。

 

それでもドゥンドゥップは、「釈放されてからの生活の方が苦しかった」と語る。その真意は是非本書で読んでほしいが、そこには、我々の無関心さが関わっている。著者は、【人々は、ある現象に対して瞬間的に熱狂して盛り上がり、そしてすぐに忘れていく】と書く。ドゥンドゥップは、自身の解放運動に力を貸してくれた人に感謝の念を抱きつつ、問題が解決していない中で、人々の関心が薄れていくことへの恐怖と諦念を抱いている。

 

世界は、少し前と比べても確実に良くなっているはずだ。しかし当然、問題が無くなったわけではない。どれだけ関心を持ち続けられるかで、世界は少しずつ変えていけると信じたい。

 

『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』集英社クリエイティブ
小川真利枝/著

この記事を書いた人

長江貴士

-nagae-takashi-

元書店員

1983年静岡県生まれ。大学中退後、10年近く神奈川の書店でフリーターとして過ごし、2015年さわや書店入社。2016年、文庫本(清水潔『殺人犯はそこにいる』)の表紙をオリジナルのカバーで覆って販売した「文庫X」を企画。2017年、初の著書『書店員X「常識」に殺されない生き方』を出版。2019年、さわや書店を退社。現在、出版取次勤務。 「本がすき。」のサイトで、「非属の才能」の全文無料公開に関わらせていただきました。

関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を