2018/10/26
坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長
『情報生産者になる』ちくま新書
上野千鶴子/著
2004年5月13日(木)午前10時、天気は雨。東大本郷キャンパス・法文1号館の教室で行われていた上野千鶴子ゼミで、私は文献発表を行っていた。
今回の課題文献は、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社)。
ジェンダー関連書の中で最も社会に影響を与えた思想書とされているが、その内容は極めて難解。ほとんどのゼミ生は議論に参加することすらできず、発表者として徹底的に文献を読み込んできた私の独壇場で終わる雰囲気になった。
勝ち誇った顔で発表を終えようとした瞬間、それまで沈黙を貫いてきた上野先生が「では、坂爪のロジックを私が全部崩してやろう!」とまさかの参戦。
そんなバカな。勝てるわけがない。脳裏には「死」の一文字しか思い浮かばなかった。
ひきつった顔の私を横目に、上野先生は「そもそも『正しい系譜学』というものは存在するのか?」といった、私の発表のアキレス腱を容赦なく切断するような問いを矢継ぎ早に投げかけてきた。
あれから14年。私も上野ゼミ出身の「情報生産者」の端くれとして、表社会と裏社会の境界線上にポジションを取り、現場から生み出されるノイズを情報に変え、出版業界のハイエナたちと丁々発止のやり取りをしながら、一般向けの新書という形で世に送り出す作業を繰り返してきた。
この6年間で刊行した本は、合計12冊。自分で言うのもおこがましいが、上野ゼミ出身者の中では、最も生産性の高い「情報生産者」の一人だろう。
そんな中、上野ゼミのメソッドをまとめた『情報生産者になる』(ちくま新書)を手に取った。まぁ、私くらいになると、ここに書かれているようなことは、もう全て理解・実践しているけどね。心の中でそうつぶやきながら、懐かしい卒業アルバムをめくるような気持ちで、本書を開いてみた。
が、甘かった。本書は「懐かしい卒業アルバム」などという牧歌的な代物ではなく、360度の全方位=全てのページから、高解像度の上野千鶴子が立体音響で迫ってくるかのような臨場感と緊張感に満ちた、「VR上野ゼミ」とでも呼ぶべき一冊だった。
一瞬にして、あの14年前の法文1号館の教室に引き戻された。
上野「坂爪、plausibilityとはなんだ。日本語で言ってみろ」
坂爪「ぷ、ぷらうじびりてぃ・・・。ええっと・・・『なんとか可能性』ですよね?(必死)」
上野「当たり前だ(会場笑)。早く答えろ」
坂爪「ぷ・・・ぷ・・・(絶句)」
こうしたゼミのトラウマが、鮮明な映像を伴って逐一フラッシュバックしてくるため、ページをめくる手を度々止めざるを得なかった。
私は何もわかっていなかった。14年経っても、本書に書かれていることのせいぜい2~3割程度しか実行できていないことに気づき、愕然とした。いっぱしの「情報生産者」になったつもりでいたのだが、「なんちゃって情報生産者」でしかなかったのだ。
逆に言えば、本書に書いてあることのうち、ほんの2~3割でも実行することができれば、「気鋭の書き手」として偉そうに新書を連発できる程度の著者には確実になれる。とてつもないポテンシャルを秘めた一冊だと言える。
学問は、伝達可能な知の共有財産である。そこにはタネも仕掛けも魔法も無い。
学問という情報生産者になることを指南する本書には、論理的に考えれば当たり前のこと「しか」書いていない。当たり前のこと「さえ」できれば、誰でも情報生産者になれる。しかし、私たちはそんな当たり前のこと「すら」できていない。当たり前のことを徹底し続けることは、実は当たり前ではないのだ。
論理的に当たり前のことを徹底できる人の背景には、非論理的な情動がある。その有無こそが、優れた情報生産者になれるか否かを分ける決定的な条件になるはずだ。
しかし、どうすればそれを手に入れられるのか、そもそも事後的に習得可能なものなのかどうかは、本書には書いていない。著者に尋ねても、「それはあなたの問いでしょう」とはぐらかされるのがオチだろう。
この問いに対しては、私自身が情報を生産していく中で、答えを探していくしかないのだろう。自分なりの答えが見つかったその時、胸を張って「私は情報生産者だ」と言える気がする。
「情報生産者になる」という極道の果てに待ち構えている景色を見たい人は、ぜひ本書を通して「VR上野ゼミ」の世界を体験してほしい。
『情報生産者になる』ちくま新書
上野千鶴子/著