akane
2019/09/30
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2019/09/30
※本稿は、喜瀬雅則『不登校からメジャーへ ~イチローを超えかけた男~』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
東京から電車を乗り継ぎ、およそ3時間。茨城県鹿嶋市は、サッカーJ1の強豪・鹿島アントラーズのホームタウンでもある。Jリーグの試合当日には、深紅のレプリカユニホームに身を包んだサポーターたちで、JR鹿島神宮の駅前はごった返すという。
「それ以外の日は、このあたり、人がいませんよ」
笑いながら、タクシーの運転手さんが明かしてくれた。
その静かな駅前から、小高い丘に向かって車で約10分。下校する生徒たちの横をすり抜けるようにして、車は鹿島学園高の正門前へと到着した。
「相当、遠かったでしょ?」
野球部監督の鈴木博識(すずきひろし)が、プレハブの部室で、温和な笑顔とともに出迎えてくれた。
1989年(平成元年)創立の同校には、2018年(平成30年)現在も甲子園の出場経験はなく、県ベスト4が最高成績だ。
決して強豪とはいえない、歴史も浅い野球部に鈴木が監督として迎えられたのは、2015年(平成27年)8月のことだった。
鈴木が築き上げてきた実績は、実に輝かしい。
1996年(平成8年)から14年間、母校・日本大学の監督として、全国大学選手権で準優勝2度。村田修一(元・横浜~巨人、現・巨人2軍打撃兼内野守備コーチ)、長野(ちょうの)久義(巨人~広島)ら、プロの世界でも一線級で活躍する選手たちを、数多く育て上げている。
1950年(昭和25年)生まれ。還暦も越えた名将が、最後の挑戦の場として選んだのは、もう一度、高校生と一緒に、甲子園という「夢」を追うことだった。
鈴木は1968年(昭和43年)夏、栃木・小山高のエースとして甲子園に出場。初戦(2回戦)の高松商戦では、8回まで1失点の好投も、同点で迎えた9回にサヨナラ負けを喫している。
日大、そして社会人の三菱自動車川崎でも活躍した後、1981年(昭和56年)から、指導者生活をスタートした。
まず青森商で5年間監督を務め、1987年(昭和62年)から日大藤沢高の監督に就任した。
赴任当時、日大藤沢には甲子園出場経験がなかった。
自分もプレーした夢の舞台に、生徒たちを立たせてやりたい。
情熱的な指導ももちろんだが、いい選手がいると聞けば、休日も惜しんで、スカウティングのために足を運んだ。
監督就任直後の、暑い夏の日のことだった。鈴木は、中3の有望な左打者を視察するため、神奈川県内のあるグラウンドに出向いた。
ところが、その選手と同じチームで一塁を守っていた体のがっちりした「別の選手」の動きに、いっぺんに心を奪われた。
「バッティングのパワー。ヘッドスピード。スイングの強烈さ。それは、すごかったですよ。この選手、いいなあと」
それが、中学2年生の根鈴だった。
シニアリーグでは、軟式ではなく、硬式のボールを使う。緑中央リトルシニア(現・横浜青葉リトルシニア)に入団した根鈴の、中1での初めてのゲーム。つまり、硬式での第1打席でいきなり、本塁打を放ったという。
根鈴は、聞こえてくる“自分への高評価”がうれしかった。
「今で言うなら、清宮(幸太郎=現・日本ハムファイターズ)君みたいに、ずぬけた体で目立っていたみたいです。パンチ力も『神奈川県で1番』と言われて、打ったら周りが『おーっ』って」
小6の時点で、すでに身長170センチ、体重85キロ。その恵まれた体格を生かした豪快なバッティングは、県内でも早々と、評判になっていた。
すごい体の中学生が、ホームランを打ちまくっている–。
根鈴に着目したのは、鈴木だけではなかった。
横浜、桐蔭学園、東海大相模。名だたる強豪校の監督や関係者が根鈴のプレーを視察に訪れた。
「ウチの学校に来てくれないか」
にわかに“怪物争奪戦”が勃発していた。
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