ryomiyagi
2021/02/15
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2021/02/15
オムライス的な和洋折衷の感覚を持った画家のひとりとして、藤島武二がいる。
藤島武二は、黒田清輝に並んで明治を代表する作家として知られる一方で、日本的なアール・ヌーヴォーを確立したデザイナーでもある。
黒田清輝は西洋画を、そのまま「輸入」したが、藤島武二は、その食材を巧みに「料理」した。
こう本書の著者・ナカムラクニオさんが語る藤島武二の作品の一つが、次の『みだれ髪』(与謝野晶子)の装丁だ。
まだ、「グラフィックデザイン」という言葉すら浸透していない明治の時代に、彼はデザイナーとして『明星』の表紙や『みだれ髪』など書籍の装丁を描いていたらしい。いわば、「日本初のグラフィックデザイナー」なのだ。
そんな藤島武二がデザインした『みだれ髪』の表紙について、ナカムラさんは次のように話す。
手にしてまず驚いた。表紙のタイトルが『みだれ髪』と書かれていないのだ。よく見ると「ミだ礼髪」となっている。『みだれ髪』の「み」の文字は、赤い丸を三つ重ねて「ミ」と読ませており、浮世絵に描かれる暗号のような文字にも見える。これは、江戸時代に流行していた「文字絵」「隠し絵」と呼ばれる遊び絵を意識していたのかもしれない。形も細長い短冊形の手のひらサイズ。実に美しい本だ。
女性の髪が描く装飾的な文様や、縦長の構図にはアール・ヌーヴォーの代表格アルフォンス・ミュシャっぽさがある。そこに浮世絵の文字遊びを取り入れているバランス感覚がおもしろい。まさに和洋折衷のスタイルを持っていたのだ。
そんな藤島武二は、1867年(慶応3年)の鹿児島県生まれ。母方の家系は江戸中期に狩野派の画家を輩出した家だったそうだ。そのためか幼い頃から画才を発揮し、18歳になると日本画家の川端玉章に入門、日本画家として活動を始めた。その後、24歳で洋画に転向するもさっぱり芽は出ず、中学校の美術教師として働いていた。
しかし、29歳で彼の人生は一変する。
1896年(明治29年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が新設されることになり、同郷の黒田清輝が、いきなり藤島武二を助教授に推薦したのだ。
まったく無名の中学校美術教師を新設する西洋画科の助教授に推薦するとは驚きだが、理由は至って単純だった。
「私の知っている人の内では、藤島君が一番洋画がうまかったから」だと黒田清輝本人が語っている。
そうして助教授になってから後、グラフィックデザイナーとして名をはせるものの、画家として絵画の世界では自分の個性を確立できないでいたという。そんな時、またもや転機が訪れる。
1906年(明治39年)、文部省から買いが研究のため4年間もフランス、イタリアへ行くよう留学を命ぜられたのだ。39歳で初の国費留学だった。
まずはパリの画学校に入学し、西洋絵画を一から学んだ。41歳になるとイタリアのローマに移り住み、古典絵画も学んだ。そして帰国すると、東京美術学校の重鎮としてさらに活躍していくことになる。
留学の後、彼が描いた木版画が次のものだ。
オリエンタルな雰囲気のあるこの作品は、ナカムラさんによると横顔の表現がイタリア初期のルネサンスを代表する画家ピエロ・デロ・フランチェスカへのオマージュらしい。
デザイナーとして、画家として、西洋と日本の感性をいいとこどりで取り入れながら描いた藤島武二は、生涯にわたって画風を何度も変えた。
彼の初期作品は、アール・ヌーヴォーを代表するチェコ出身のグラフィックデザイナー、アルフォンス・ミュシャから影響を受けた装飾的ロマン派風だ。次は、マネのようなシンプルな印象派風。さらに、イタリアの古典主義風オリエンタル絵画。そして最後は、単純化された風景画へと辿り着いた。
この絵は1904年(明治34年)、藤島武二がまだ留学に行く前の時期、37歳の時に描いた作品だ。
女性を描いたやわらかい曲線はアール・ヌーヴォー的であり、肌の陰影に緑が使われている様は印象派的である。先ほど挙げた木版後と比較してみると、ずいぶん画風が違う様に思われる。
しかしこの画風の多様さも、藤島武二の多用な画風をその時々で取り入れて自分の作品を作るという、一貫した折衷主義がもたらした産物なのかもしれない。
ナカムラさんは、藤島武二の画風を次のように分析している。
エクレクティックな藤島武二の絵画に、これらの成分のどれが含まれているか。そんな視点で楽しむのも良い。『洋画家の美術史』は、絵画の楽しみ方を広げてくれるようだ。
文/藤沢緑彩
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