サッカー未経験で「Jリーグ戦術分析官」に迎え入れられたサッカー店長の視点
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BW_machida

2022/02/28

 

政治問題山積の北京冬季オリンピックが終わった。振り返ってみれば、1984年に米・ロスアンゼルスで開催された夏季オリンピック以降、スポーツと平和の祭典は著しく商業化され、開催費用は膨れ上がり、かつてのこそばゆいほどの国威発揚の場は居丈高なプロパガンダの宴と化してしまった。開催を求める候補地は、こぞって「簡素化」と「費用削減」を訴えるが、開催地となって以降はその声をひそめる。そんな、歓喜と後悔を繰り返すだけのビッグイベントが、多くの政治問題を残して終幕した。

 

夏・冬ともに活躍する平野選手が、超高難度の妙技で純白のハーフパイプに弧を描けば、氷上の貴公子・羽生選手が、人類初のクアッド・アクセルに果敢に挑む。明暗こそ分かつが、どちらの演技も日本国内は言うに及ばず、世界の溜め息を欲しいままにしたことは疑う余地がない。そして氷のリンクに響く「ナイッスー」に、観る者は皆頬をほころばせる。
アスリートとは、かくも力強いものかと、改めてスポーツの持つ力のほどを知らされた。そんな私の手元に『サッカー店長の戦術入門』(光文社新書)がある。著者は、サッカー未経験者でいながら、Jリーグの発足に心動かされ、世界中のサッカーを観て歩き、帰国後はサッカー用品店の店長として、連日2万字にも及ぶサッカーの戦術分析をブログに綴り続けて、戦術分析官として藤枝MYFCに迎え入れられるという超異色な経歴の持ち主である。

 

現実のサッカー界では、こうしている今も日進月歩で戦術は進化している。それらは日々の勝利を全力で追及する者同士が鎬を削り合うことで生まれる“知の結晶”だ。我々観戦者はその知略戦をくまなく読み取り、吟味し、骨の髄まで味わい尽くすことこそが至上の喜びであり、彼らへ送ることが出来る最大限のリスペクトにつながるのではないだろうか。

 

本書を読み進めるうちに思い知らされること。それは、著者の、サッカー選手や指導者に注がれる最大限のリスペクトだ。
1993年Jリーグが開幕するや、当時12歳の著者は、TV放送される全試合を録画し繰り返し観る日々を送る。そして10年後。アルバイトで稼いでは海外にサッカー放浪の旅に出て、お金が尽きれば戻ってきてアルバイトし、また旅に出るを繰り返す。

 

あれは初めて海外に一人でサッカーを見に行った時のことです。W杯よりもレベルが高いと言われる欧州選手権を観るために、私はオランダを訪れていました。そこで観たフランス代表の試合のある場面で、不思議な感覚を体験したのです。(中略)
スタンド全体から自然と拍手が沸き起こったのです。シュートシーンでもなければGKの決定的なセーブでもない、SBの横パス1本でこのような反応をスタンドが示す光景を私はそれまで経験したことがありませんでした。つまりこのスタジアムにいる人々は皆、今起きたプレーの価値の高さを分かっている、ということです。その時、言葉も文化も全く違う異国にいながら、「サッカー」という文法で彼らとつながり、日本では浮きまくっていた自分がつかの間受け入れられたような、そんな感覚を覚えたのです。

 

言葉も覚束ない異国で、見知らぬ人と喜びと興奮を同じくする。これこそ人生の醍醐味ではないだろうか。音楽やダンスもそうかもしれない。ましてやスポーツには、国境はおろか、文化や言語をも超えた共感値をもたらす力がある。

 

そうして欧州・南米と、おおよそ観たいサッカーを見つくした著者は、地元のサッカーショップで働くこととなる。その後は、先に述べた通り、ショップのブログに延々綴り続けた異常なほどに詳細な試合分析が話題を呼び、藤枝WYFCにプロの戦術分析官をとして迎え入れられるのだ。
恐れ入ったとしか言いようがない。
「好きこそものの上手なり」とはよく言ったもので、「好き」もここまで高じれば立派のひとことに尽きる。

 

本書はさらに、モウリーニョ、ディエゴ、マルセロ、ガスペリーニ、クラウディオ、アンチェロッティ、ジダン、ナーゲルスマンと、現代サッカーを進化させる名将を分析し、彼らが追い求める究極のサッカーの姿を垣間見せてくれる。

 

ゾーンプレスの普及とトップ下の凋落(90年代)
「外」から崩すウィンガーの台頭(00年代)
0トップという再発見(10年代)
リベロのリバイバルなるか(20年代)

 

かなり乱暴だが、私よりもサッカーに詳しい方なら、上に列記したタイトルだけで、おおよその内容が知れよう。
そういえば、小柄だがやたらと足の速い日本のウィングが注目された時期があった。などと、私ですらも、その時々に注目されていた日本人選手の顔が脳裏を過る。少年の頃のサッカーならば、FWがすべて。豪快なシュートを決めるストライカーが花形だった。それがいつしかMFに変わり、さらにはウィングやDFといった様々なポジションの妙を知らされるようになっていった。
ひとえにそれは、時代とともにサッカーが進化し続けているがゆえであろう。と同時に、Jリーグ発足から30年を経て、私のようなサッカー音痴にすらも、サッカーのゲームとしての面白さが浸透してきている証ではないだろうか。

 

サッカー未経験者がゆえに、「戦術」というピッチ上の選手では無く指揮官的な視点を重視する著者が、本書のラストで「ファンタジスタ」と称される選手について語っている。

 

私自身、もしサッカーにファンタジスタがいなかったら、ここまで惹き付けられることはなかったであろう。マラドーナ、プラティニ、ジダン、ロナウジーニョ、メッシ……。こういった歴代の名手たちが多くのファンに愛され、今もなお語り継がれているのはその創造性溢れるプレーゆえである。
サッカーでは元々、ピッチレベルでプレーする選手の視界は極めて限定的だ。一度ボールを蹴ってみればよく分かるが、俯瞰の視点で見ている観戦者とは別世界がそこにはある。しかし、中にはピッチ上でプレーしながらまるで俯瞰の視点で見えているかのようなプレーが出来る選手もいる。彼ら一流選手のプレーは俯瞰で見ているこちらの意図を汲んだように的確に流れていくので、見ていても非常に心地好い。そしてさらにごく一部、俯瞰で見ている我々でも気が付かないようなパスコースを見出したり、思いもよらないプレーで局面を打開する特別な選手がいる。個人的にはこの、自分の想像を裏切られた時の驚きこそ、サッカー観戦における最大の醍醐味だと思っている。そこには勝敗を超えたサッカーの喜びがある。だからこそ想像を超えた選手のことを、人々は「ファンタジスタ」と呼んで崇めるのではないだろうか。

 

サッカー選手に、そして、そんな選手を操る指揮者にとり憑かれたいちサッカーマニアが、好きが高じて「崇める」に至った先が、未経験者にしてプロの戦術分析官だった。

 

本書『サッカー店長の戦術入門』(光文社新書)は、数多のサッカーマニアやサッカーフリークが夢見る、ピッチ側のテクニカルエリアに立つことができた変態的なサッカーマニアの物語である。と同時に、わかりやすくサッカーに引きずり込んでくれる、詳細な観戦ガイドだった。Jリーグを目指す少年たちはもちろん。彼らを応援する大人たちや、サッカー談議に花を咲かせる諸兄に是非読んで欲しい一冊だ。

 

文/森健次

 

『サッカー店長の戦術入門』
龍岡歩/著

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