2018/11/01
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者
『ヒトラーの家 独裁者の私生活はいかに演出されたか』
デスピナ・ストラティガコス /著 北村 京子/翻訳
独裁者は、雄々しく、神聖不可侵で、近寄りがたいだけでは足りない。同時に、気さくで、優しく、親しみやすくなければならない。「民衆の上」のみならず「民衆の横」にも立つことこそ、独裁者の理想的な姿だからである。
ヒトラーは、私的な生活や空間を積極的に公開することで、後者の要請に応えた。公式写真集上の彼は、別荘でくつろぎ、ピクニックでランチをとり、戸外で読書し、犬と散歩し、子供の手を引き、はては運転手のわきで居眠りさえしている。もちろんすべて計算されたものだった。
私邸のインテリアも、ベッドの布団から壁の絵画まで、家庭的で文化的に見えるように配慮された。たとえば、大広間に掲げられた裸婦画や、寝室に掲げられた母の写真とキリスト磔刑図は、ヒトラーが性的にも宗教的にも「健全」だという安心感を演出した。
このようなプロパガンダは大きな成果を収めた。国内はもちろん、国外でもヒトラーのイメージは大きく改善された。「見よ、あの生活を。贅沢でも異常でもない。意外と話のわかる、善良で知的な男ではないか?」というわけだ。
ナチスのプロパガンダといえば、ニュルンベルクの党大会、軍事パレード、新首相官邸などが連想される。だが、じつは私的な生活空間こそ、知られざるプロパガンダの舞台だったのである。著者は、「公的で巨大なもの」と「家庭的で小規模なもの」の組み合わせが、独裁者のイメージを作ったと適切に指摘している。
「これはヴァッヘンフェルト・ハウス(引用者註、ヒトラーの別荘)の見物人と、ニュルンベルクの党大会参加者とが、総統のすばらしさという点においては同じ結論に達したものの、一方はヒトラーの靴を履いてみる(中略)感覚を通じて、もう一方はその靴に喜んで踏まれることによってそこにたどり着いたということだ」
いうまでもなく、「靴を履いてみる」ことが「民衆の横」に立つヒトラーに、「靴に喜んで踏まれる」ことが「民衆の上」にたつヒトラーに、それぞれ対応している。
ひるがえって今日、われわれは、ブログ、インスタグラム、フェイスブックなどで、政治家や実業家や有名人たちの「私生活」をのぞき見た気になっている。それが作為的なものだとわかっていても、机のうえに何気なく置かれた本やティーカップ、ボールペンなどの意味をどれくらい真剣に考えていただろうか。建築史家の著者による、ヒトラーの家の細やかな読み解きはそのことを突きつけてくる。
『ヒトラーの家 独裁者の私生活はいかに演出されたか』
デスピナ・ストラティガコス /著 北村 京子/翻訳