2019/03/13
田崎健太 ノンフィクション作家
『東京パパ友ラブストーリー』講談社
樋口毅宏/著
過去、何度かフィクションを書かないかと誘われたことがある。ノンフィクションの書き手にとって、小説は強い誘惑である。
被取材者への配慮、事実関係の確認がどうしても取れない、などなど――ノンフィクションでは書けないことが出て来る。年を重ねるとそれが澱のように積み重なっていく。その澱を使って、自分の好きなように登場人物を動かしたいと思うものだ。
しかし、実際にぼくがフィクションを書き始めることはなかった。ぼくたちは取材で集めた材料を集めて作品を構築していく。特にニュージャーナリズムのような手法を使うときは、想像力を使いながら、ぎりぎりの“真実”を文章にしていく。だからこそ、一線を踏み越えることに強烈な拒否感がある。ぼくがフィクションを描くとすれば、ノンフィクションの延長線上にあるものに限られるだろう。
もちろん、ノンフィクションとフィクションを自由に行き来する書き手もいる。
樋口毅宏の『おっぱいが欲しい』は、彼の育児日記である。妻である東大卒の美人弁護士、三輪記子の過去の男性関係、エキセントリックな激情まで、悲哀と笑いにまぶしたノンフィクション風エッセイだった。
ノンフィクション風としたのは、彼が小説家であるからだ。誤解を恐れずに言えば、事実確認よりも、面白さに重きを置くという意味が含まれている。そして彼は育児という日常を愉快な読み物へと見事に昇華していた。
印象的だったのは、五十四歳で亡くなった父親について書いた箇所だった。
樋口は息子、一文が生まれてから、しきりに父親のことを思い出すようになった。自分が息子を愛おしく思うように父も同じような気持ちを抱いていたのかと。
樋口には父に抱きしめられた記憶はない。日曜日は近所のサウナとパチンコ屋につれて行ってくれたという。それが父親なりの愛情表現だったのだろうと気がついたのだ。
〈父は普通の、気が小さい人だった。
父は人並みに野心家で、肉屋以外に幾つも店を起こしたがすべて失敗した。
自分に裏切られることに疲れ果てて、早く逝ってしまった。
父が逝ったとき、自宅で検視官が取り囲む中、僕は彼の顔に近付いて、心に誓った。
あんたの人生の復讐は必ずする。
その復讐は叶ったのだろうか。
生きていたら七十六歳。
記子と会わせたかった。
一文と会わせたかった〉
ほろりと来た。
今度の作品「東京パパ友ラブストーリー」では、同じ育児を題材として取り上げている。
主人公は二人の男。三〇才のファンドマネージメント会社のCEOである有馬豪と、五二才の建築家の鐘山明人。
有馬にはオーガニック食品など流行り物に敏い、スタイル抜群の妻、まなみと娘がいる。家事は妻に任せきり。
一方、鐘山の妻、美砂は、“元早稲田準ミス”で歯に衣着せない物言いで知られる、上昇志向の強い東京都議だ。息子である光の世話、そして家事一般は建築家としての将来を半ば諦めて鐘山が担当している。
鐘山明人の言葉は「おっぱいが欲しい」の読者ならば既視感があるだろう。
〈「俺と美砂は出会ってまだ四年ぐらいで、最初のうちは羊の皮を被っていた。狼の耳と牙がはみ出ていることに気付かないこっちの方が悪いんだ」〉
〈「当時俺はツィッターをやっていて、自分の名前をエゴサーチしてみた。彼女が俺が設計した建物について呟いていたのでダイレクトメッセージを送った。そこからだよ。間違いの始まりは」〉
〈「それまでの俺は仕事第一で、女性とは適当に遊んでいた。で、美砂と会って、付き合い初めて、わりとすぐにあっちから“結婚したい。あなたの子を産みたい”って言ってきて。美砂のことは、名前ぐらいは知っていた。それまで俺が付き合ったことがないタイプで、こんな太陽なような人と一緒に生活するのってどんな感じだろうって思った」〉
そして、有馬と鐘山は、同性の“恋人関係”となり、二つの家庭は崩壊していく――。
男同士が愛し合う理由について、まなみの旧知のゲイバーのママの口を借りてこう言わせる。
〈「男は女みたいにめんどうくさくないし、御機嫌を取らなくていい。気を遣わないし。子どもの頃からそう。鬼ごっこも、缶蹴りも、サッカーも女とやって楽しいわけないでしょ。女とは怪獣の話もジャッキー・チェンの話もできないし。なんで男の子はみんな野球選手になりたいんだと思う? 大っぴらにケツを叩けるからよ。
男は男に目覚めたら、女なんか平気で捨てる。平和な時代に優しく生きていても、むかしの友達に誘われたら、カウボーイのように去って行く」〉
樋口は、息子を保育園まで送り迎えし、亡くなった父親のことを考えながら、パパ友同士のラブストーリーを着想していたのだ。「おっぱいが欲しい」と「東京パパ友ラブストーリー」は表裏一体でありながら、全く違う方向の作品である。そして、どちらもエンターテインメントとして成り立っている。
ストーリーテリングの名手である彼と、ノンフィクションの書き手であるぼくとの間には深くて暗い川があることを改めて面白く思った。
『東京パパ友ラブストーリー』講談社
樋口毅宏/著