2019/05/13
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者
『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋
小林忍+共同通信取材班/著
「何とかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」。昭和天皇は、アジア太平洋戦争下の1943年に、こう漏らした。参謀本部作戦課長、同第一部長などを歴任した陸軍軍人、真田穣一郎の日記にそう記されている。
「日本としては結局アメリカと同調すべきで、ソ連との協力は六ヶ敷いと考へるが」。こちらは占領下の1947年の発言。外相、首相を歴任した芦田均の日記に記されている。
天皇の発言は、式典などで述べられる公式のものだけではない。こういう非公式な発言も、その言動を考えるうえで欠かせない。側近などの日記は、この点で比類なく重要な位置をしめている。
本書は、晩年の昭和天皇に仕えた小林忍侍従の日記である。昭和天皇関係の資料は掘り尽くされたと思われていたが、2018年、共同通信によってはじめてその存在が報道された。公式記録集の『昭和天皇実録』にも使われていない、まさに昭和史の一級資料だ。
■漢字の読み方を厳しく訂正され「御機嫌よくなく」
では、そこにはどんなことが書いてあるのだろうか。報道では、
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」(1987年4月7日。以下、注釈は省く)
が注目された。昭和天皇は晩年まで戦争責任のことで悩んでいたのだ、と。そういう真面目な部分も大切だけれども、どうでもよさそうな日常の記述にむしろ本書の読みどころがある。
「[新環境庁長官の]毛利松平氏の『松平』について、御署名のときお上は『松平』という姓が名前になっていて面白いねぇ。『ショーヘイ』と読むのかとおっしゃった。『マツヘイ』と履歴書に書いてある旨申しあげた」(1974年7月12日)
「[宮内庁]長官、夜拝謁が終って立ち上がり帰るときすべってころんだ。お上がお驚きになって『大丈夫か』とおっしゃったという。長官恐縮していた」(1976年2月12日)
こうした会話は、かかる人物の場合、かえって貴重だったりする。昭和天皇はまた、「お言葉」の読み方について事前に熱心に練習していたようだ。
「『来日』を『ライジツ』とお読みになるので『ライニチ』とお直しし、そこに特に念入りになさった」(1975年9月29日)
「国会開会式おことば御練習。[中略]『97』は『クジュウ』か『キュウジュー』か、後者に。『ナナ』か『シチ』か後者に」(1982年12月2日)。
ただし、あまり厳しく訂正されるとご機嫌斜めになったらしい。
「晩餐お言葉御練習の訂正。[中略]誤読などあると訂正を申しあげているのだが、かなり細かいところまで訂正を申しあげたらしく、『両国』を『リョウゴク』ではなく『リョウコク』ときびしく申しあげたので御機嫌よくなく、どちらが正しいか文化庁にきいて調べる旨申しあげたらしい」(1986年7月14日)
■書籍の新聞広告を読んで「どういう人物か、内容は」と質問
昭和天皇は、新聞広告に出ている天皇関係の本にも気を配っていた。
「読売新聞の『天皇の現代史』(長尾和郎著)の広告にお上から、どういう人物か、内容はとの御下問。調べまして、ということで下がった」(1979年5月17日)
「一昨日『天皇の昭和史』について内容お尋ねあり。今日図書館で借用。天皇制批判の書」(1985年3月29日)。
『天皇の昭和史』は、藤原彰、吉田裕らの共著。後者は、今日では『日本軍兵士』(中公新書)の著者といえば通りがいいだろう。
さきごろ退位した平成の天皇も、同じように新聞広告にかんして質問しており、父子の共通点として興味深い。
「1月14日の朝刊で、『12月23日天皇誕生日の夜に『お呼び出し』 美智子さまが雅子さまを叱った! 宮中重大スクープ『東宮と共に人々の前に姿を見せるのが最善の道です。小和田家とは文化が違うのですから』美智子さま)『心に刻みつけるようにいたします』(雅子さま)』という週刊文春の大きな広告をご覧になった天皇陛下は、侍従長に対し、このような広告は一つ一つ気に留めることはないが、自分の誕生日のこととされ、自分にはあり得ないこととしか思えないが、何があったのかとご下問になりました」(「「週刊文春」(平成28年1月21日号)の記事について(2)」、2016年1月15日)
一般人が天皇になにか伝えたい場合、新聞広告を大々的に出すのがいいのかしれない。なお、昭和天皇は興味のある分野には「ミスプリント」を指摘することもあった。
「お上から『原色日本野外植物図鑑』の『たちかもめづる』説明中の分布図参照の頁に、分布図がのっていないのは、ミスプリントかどうか献上者の佐藤人事院総裁にそれとなくきくようにとのおおせ」(1974年4月21日)
ついでに、こんな何気ない受け答えも紹介しておこう。
「両陛下から御訪米につき御苦労だったというので賜り(お供しなかった侍従にも)。[中略]お上にはお礼申上げた。『う~』とおっしゃった」(1975年11月5日)。
「[インド大使の来日経験について間違った情報を伝えたことについて]終っておわびしたが、『ん』とおっしゃってお笑いになった」(1978年7月10日)
「う~」「ん」。まるで深夜アニメのキャラクターのようである。侍従の日記ならではの「お言葉」といえよう。
■2月26日にスキー出発とは、「慎しみが足りない」
このように小林侍従の日記は、真面目に読まなくても十分に面白い。小林本人の見解もときどき出てきて味わい深いが、あとは本書に直接あたってもらえばいいだろう。ただ、平成と令和に関係する2箇所だけは触れておきたい。
ひとつめは、1983年、黒木従達東宮侍従長が新宿の風俗店で亡くなった事件。ネットにはあやふやな情報も流れているが、小林侍従の日記にはつぎのようにみえる。
「昨夕、黒木東宮侍従長、新宿外出先で急逝、心臓発作という。65歳。新宿のトルコ浴場に、検診に行きつけの検査所からの帰りに4時ころ行って、そこで倒れたという。場所が場所だけに工合が悪い」(1983年1月20日)
この事件は『昭和天皇実録』では詳しく書かれていないものの、明仁上皇の、皇太子時代の侍従長なので、やがて編まれるであろう『平成天皇実録』では触れないわけにはいかないだろう。どんな記述になるのか、「お言葉」を述べたのかどうか、気になってくる。
ふたつめは、小林侍従の、皇族にたいする厳しい意見。1988年、昭和天皇が「お慎みの日」としていた2月26日に、皇太子(=現上皇)と浩宮(=現天皇)がスキーに出かけた。小林侍従は、これを「慎しみが足りない」と批判したのである。
「2・26事件。昭和11年の事件につき毎年おつつしみであるが、東宮、浩宮両殿下が今日から28日まで岩手県八幡平にスキーにお出かけになるので、このような日に出発するとは慎しみが足りない。しかも暗殺された斎藤実(当時内大臣)は岩手県出身であるというお気持ちが強い」(1988年2月26日)
巻末の「解説対談」で半藤一利が指摘するように、これは昭和天皇の思いを代弁したものでもあるだろう。
平成の天皇は歴史に関心が深く、牧野伸顕や木戸幸一の日記を読んで、周囲に感想を訊くこともあった。令和の天皇も、あるいはこの侍従日記を手に取り、読むかもしれない。そのとき、こうした箇所になにを思い、なにを語るのか――。
読み終えてなお想像が尽きないのも、かかる一級資料を読む楽しさである。
『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋
小林忍+共同通信取材班/著