2021/06/17
馬場紀衣 文筆家・ライター
『コンピューターは人のように話せるか? 話すこと・聞くことの科学』白揚社
トレヴァー・コックス/著 田沢恭子/訳
「人にとって、話すことと聞くことは事実にもとづく情報をやりとりするだけではない。『愛してる』というフレーズには、さまざまな意味合いが込められている。コンピューターにこんな言葉を告げることなどありえないと思われそうだが、じつは毎日たくさんの人が、アマゾンの販売する音声認識ホームアシスタントの『アレクサ』に向かって愛を打ち明けている。」
このささやかだが驚きをもって伝えられる事実が何を示しているのかというと、ひとつは機械が開発されるにつれて人間と機械との関係が変化しているということ。そしてAIが私たちの会話を根本から変えようとしているということ。本書は「話すこと」と「聞くこと」の進化について、そして人間のコミュニケーションがテクノロジーによってどのように変わろうとしているのかについて、さまざまな角度から検討した一冊。
たとえば私たちは自分の属する環境や集団に適応するために話し方を自由に変えることができる。トランスセクシャルの人は、ジェンダーを表現するために意識的に自分の声を変えようとするし、オペラ歌手は大きな劇場でも声が通るようにするため日常とは異なる発声をするらしい。また、私たちは顔も知らない、会ったことのない人の声を聞いて、話し手がどんな性格なのかを想像することがよくあるが、蓄音機や電話やラジオが発明される以前には、そうした機会はほとんどなかったと言えるだろう。
著者によると、人は視覚的な手がかりがなくても、声を聞くだけで話し手の身長や体重、人種といった鮮明な人物像を思い描くことができるのだという。四歳から七歳までの子どもの「ごっこ遊び」を調べた結果、父親役の子どもは声を低くして大声で話す傾向があった。私たちは、幼いうちに声のステレオタイプを学習し始め、実際に会ったことのある特定の人物と結びつけて目には見えない声の主を思い描くようになるという。声へのステレオタイプは、メディアを通して触れる人物や声でも形成されるらしい。
子どもが聞く力や話す力を自然に身につけていく様子を観察していると、会話をするのは自然で簡単なことだと思いがちだ。しかしコンピューターに人間と同等の力を授けようとする技術者の苦労を知れば、人間の会話能力がいかに複雑で驚異的なものであるのかを理解することができる。
この数十年で、人間の創造性に呼応するようにして新たなテクノロジーが次々と生み出されてきた。コンピューターはすでに会話し、歌い、詩だって書いてみせる。著者によると、一ヶ月に五億人もの人がグーグル翻訳を利用しているらしい。なかでも最も翻訳される言葉が「I love you」だ。現在、コンピューターは愛の言葉を地球上の人びとのために翻訳する以上のことを成し遂げてみせる。真のAIは、記憶したフレーズから創造力を発揮し、ラブレターを綴ることもできるのだ。
「コンピューターはほとんどの科学的研究で中心的な役割を担っているが、機械が物言わぬ僕として退屈な作業を肩代わりしてくれるだけの存在から脱する時代に、私たちは入ろうとしている。人間の創造力の枠を機械学習ツールと組み合わせれば、科学をもっと急速に進歩させることができる。」
著者は人間とコンピューターによる創造の未来をそのように予測しつつ、どちらがより「優れて」いるかを断言したりはしない。今日のテクノロジーに到達するまでにコンピューターが辿ってきた道のりはとても長いものだった。この先、AIが人の「声」にさらに介入し、「話す」行為に大きな影響を与えることは疑いの余地がないだろう。
『コンピューターは人のように話せるか? 話すこと・聞くことの科学』
白揚社
トレヴァー・コックス/著 田沢恭子/訳