2018/08/27
古市憲寿 社会学者
谷川直子/著
主人公は、再婚をきっかけに地方に移住した売れないイラストレーター。彼女は「長男の嫁」であることが理由で、アルツハイマー病に罹患した義父の最期に付き合わされる。
こんな風にあらすじを書くと、「暗そうな介護小説だな」と思われてしまうかもしれない。「そんな話なら、私の身近にいくらでもあるよ」という人がいるかもしれない。
だけどその予感は良い意味で裏切られることになるだろう。
本作は、ただの介護小説というよりも、主観と客観が交わりあった鋭い描写が随所に現れる社会性を持った作品である。
たとえばこんな一節がある。
「誰も見ていないところでがんばっても、村の者には伝わらないのに、ほんとうに物わかりの悪い女だ」
主人公が、足しげく義父の入居する有料老人ホームにお見舞いに行くことに対する、親戚の評価だ。
地方が舞台の本作では、何度も「世間体」という言葉が登場し、東京からやってきた主人公は、何度もその「世間体」の壁にぶち当たる。
どうやら作者の谷川直子さんの実体験が多分に反映されているらしい。谷川さんは再婚をきっかけに、20年以上暮らした東京を離れ、長崎県の五島列島に引っ越した。そこで谷川さんは「長男の嫁」として義父の最期に向き合うことになる。
主人公と経歴がそっくりだ。おそらく、書かずにはいられなかったのだと思う。自分と並べるのは気が引けるが、僕も身内の死に接して小説を書かざるをえなかったことがある。
「それぞれ自分の人生を個性豊かに生きてきた老人たちが、同じようにこわれていくというのは不思議なものだ」「特養。あこがれの響き」など、この小説は介護を実際に経験した人でしか書けないだろう表現にあふれている。
ちなみに「特養」が「あこがれの響き」なのは、通常の有料老人ホームに比べて特別養護老人ホームは、費用負担がとても安く済むから。
その分、希望者は多く、65歳以上の要介護3(「立ち上がりや歩行、食事、排せつ、入浴の際に全面的な介助が必要である」度数)以上で、よほど重篤な状態でないと入居できないことが多い。小説の表現を借りれば「特養という言葉には、もう介護を人に任せてしまってかまわないという世間のお墨付きをもらったような重みがある」。
私小説とも言える内容だから、この物語に都合のいい展開なんて何一つ起こらない。
しかし作中の人物に言わせているように、本当に疲れた人が求めているのは、リアリティにこだわった物語ではない。「ドラマの中でまで現実なんて見せられたくない」から、作中の人物は「ドラマチックな夢」を求めて韓流ドラマを観る。
そのことがわかっているなら、もっと本作にも「夢」があっても良かったはずだ。老人ホームでの恋愛とか、優しくて気の利く男の登場とか。介護に疲れている人ほど、そんな物語を読みたいのではないか。でも、『私が誰かわかりますか』には、そんなことは起こらない。
だけどこの小説に全く救いがないかというと、そうでもない。
多元的な視点が確保され、一つの事実に対して様々な解釈がなされるからだ。たとえば疎ましくて仕方ない「世間体」に、物語の最後で主人公は好意的な評価を下す。谷川さん自身、朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』に寄せた文章の中で、「世間」について、「ほうっておかないということは、つまり見捨てないということなのだ」と記している。
こうだったらいいなという「夢」が、ドラマチックな展開ではなく、解釈というぎりぎり現実的な範囲で確保されているのである。
達成感と、ほのかな希望が余韻として残る読後感だった。
『私が誰かわかりますか』朝日新聞出版
谷川直子/著