理不尽に「ひと」に傷つけられ、何気なく「ひと」に救われる私たち

横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店

『雪のなまえ』徳間書店
村山由佳/著

 

 

膝を抱えてうずくまっていたあの夜に。
心のなかには、しんしんと冷たい雪が降り積もっていくようだった。誰の声にも耳を傾けず、誰の手も掴むことのできなかった私は、誰も助けてくれないとひとり涙を零していた。
けれど、過去を思い返しながら、あの頃とは違う場所から物語を見つめていることにふと気づく。記憶をたぐり寄せてもはっきりとした「分岐点」は分からない。人生には無数の選択肢があって、重ねた小さな選択のひとつひとつが今の私を形作っているものだから。
たしかにあったはずのきっかけは靄に包まれたまま、“あの場所”でもがいていたわたし自身の姿を、私は思い返している。

 

主人公の雪乃は小学五年生。
東京で父と母と三人で暮らしていた、どこにでもいる普通の女の子。
クラスでいじめが横行していたとき雪乃はいじめの対象となった友人をかばい、決して離れなかった。しかし風邪をひき遅れて登校をしたあの日、友人たちは雪乃と目を合わすことを避け離れていった。
いじめの標的が雪乃になった瞬間だった。

 

ほんの一瞬で世界は変わる。
存在を無視され透明人間のようになった身体から、悲しみと孤独が溢れだす。
ただただ時間を持て余す日々は地獄のようだった。
でも、雪乃はこんな自分の現状を誰にも打ち明けなかった。ただでさえ忙しい両親を心配させたくない。悲しませたくない。それに「いじめられている」なんてどうして言えよう。それに言葉にしてしまったら、かすかな希望は打ち砕かれ、暗い現実にきっと飲み込まれてしまう。

 

大人が介入したところで、問題は解決しない。
子どもだけの閉ざされた領域で大人の力は何の役にも立たず、雪乃はさらに窮地に追い込まれる。心の前に、体が壊れた。いや本当は心も壊れる寸前だった。不調を抱えながらの登校中に、雪乃はとうとう倒れてしまった。
家で過ごすうち、すべては遠ざかっていくようだった。友だちと笑って過ごしていた日常も、突然心が引き裂かれた日々も。全部が夢であったなら。そうであったらよいのにと、何度願ったことだろう。

 

口を閉ざした雪乃と、時折聞こえる両親の諍いが家を暗く覆う。
そんななか、広告代理店でバリバリと働いていた父が故郷へ帰って農業をしたいと言い出した。それは父いわく雪乃が原因でもなんでもない。いつかは、と思っていたことが早まっただけなのだという。しかし父の決断の一方で母は努力を重ね、積み上げたキャリアを手放すことがどうしてもできない。
今、雪乃を守るため。そして、いつか必ず訪れる雪乃のしあわせのために。
家族はそれぞれの決断を下す。
雪乃と父、そして母の長野と東京の別居生活がはじまった。

 

父の故郷で、父と曾祖父と曾祖母と暮らしはじめた雪乃。
野菜を作り果樹を育て、農業を営む二人は自然ともに生きていた。土を耕し種を撒き、手をかけ目をかけ収穫をして。自然界における絶対的な営みを前にしての人間の都合や事情はただの戯言でしかない。
しかるべき時は、大地が教え、風が導くもの。
二人には都会で暮らしていた雪乃が知るはずのない知識や知恵があった。

 

土に触れ太陽の光を浴びることで明るさを取り戻していく雪乃。しかし、学校へと足を向けることがどうしてもできない。ここは“あの場所”とは違う。雪乃をいじめたあの子たちがいるはずもない。頭では分かっていても心は固く、前向きな気持ちを打ち消すようなタイミングで起こった身体の変化が雪乃の足を竦ませる。

 

また、回復途中にある雪乃を周りの“ひと”は放っておいてはくれない。
都会から小さな町へと戻ることは、注目も非難も避けては通れない。「都会のしょう」はわしらとは違うと決めつけられ、まして学校に行っていない雪乃を快く思わない大人がいることはしかたのないことだった。
父が描くカフェ作りの実現は困難を極め、周囲の人に受け入れられるどころかバカにされた。寄合で酔った大人にひどい言葉をぶつけられ、ただただ涙をこぼす雪乃の隣で母が頭を下げながら事情を話してくれたこともあった。
でも、雪乃に救いの手を差し伸べてくれたのもまた、ひとであった。

 

父の幼なじみの子どもで、同級生の大輝との出会い。
最初は警戒しあっていた二人だが、ともに過ごす時間が増えるにつれ、いつしか自然に名前で呼び合うようになる。大輝のストレートな物言いに腹を立てることもあったが、それ以上に彼のまっすぐな言葉は雪乃の心の真ん中にすとんと落ちた。
雪乃の繊細さも、大輝のひたむきさも根っこの部分では同じだった。相手の気持ちを分かろうとして、でも分からないから悩んだり飛び込んでみたり。時には口論になっても、素直に心情をこぼせたのは、雪乃を見つめる眼差しに安心し救われていたからだ。
あたたかくも厳しい曽祖父。気遣い上手で優しい曾祖母。底抜けに明るく前向きな父。真面目で、実は不器用な面もある聡明な母。各々の性格や考え方に相違はあっても、みなが雪乃のしあわせを願い、家族の形を変えていったのだ。そこには、「愛」としか言いようのないものの存在がたしかにあった。
雪乃に厳しい言葉を浴びせたひとだって、大切なことを教えてくれた。雪乃がどんなに恵まれた環境にいて、どんなにたくさんの人に見守られているか。耳をふさぎ目を背けていては永遠に気づけなかった、ほんとうの居場所。それはこの場所に来なければ、こんな状況になっていなければ、一生分かりえないことだったかもしれない。

 

雪乃は出会ったひとびととの交流を通して、心に再びあたたかな日差しを受け入れられるようになったのだ。

 

この物語を読んで“あの頃”を思い出してしまうのは、雪乃が立ちすくんでいた場所を私も知っているからだ。置かれた状況も、踏み出した一歩も違うけれど、雪乃がいたあの場所の震えるような冷たさを私は知っている。
ささいなことで友人の輪から外され、悩んでも悲しんでも「時」が解決してくれるほか、なす術もなかった。そして、被害者の立場だけでなく、加害者にもなったあまりに未熟で傲慢だった自分のことを思い出さずにはおれなかった。
私は過去を思い出しながら、雪乃の物語を追体験していた。

 

物語は最後、明るい希望を見せてくれる。そのことに、大人になった私はやっとあの頃の痛みが浄化されたのだと、ほっと胸を撫で下ろすような気持がした。もう20年も時が経っているというのに、いまだに傷があることに驚きもしながら。
あの時、この物語を読めていたらきっと救われただろう。明るい未来へ進むと決めた雪乃の姿に、踏み出す勇気と強さをもらえただろう。
けれど、目の前に立ちはだかる現実の重さや暗さも、いまでも胸が苦しくなるほど覚えてもいる。誰にも必要とされていない自分が惨めで、戦うことも声をあげることもできない弱い自分が大嫌いで、物語のなかの勇敢な主人公たちに毒づいた日々もあった。

 

痛みを知るひとにとっては、さらなる傷の浄化を促すきっかけとなる本になるかもしれない。かつて自分がした行いを顧みるきっかけになることだってあるだろう。
けれど、只中にいる“あなた”にとっては、眩しくて険しくて、どうやっても進めない道を現す厳しいものになるかもしれない。

 

でも、大丈夫。
物語は待っていてくれる。
いつかあなたの道に明るい光をもたらすその時を、いつまでもいつまでも待っていてくれるから。

 

『雪のなまえ』徳間書店
村山由佳/著

この記事を書いた人

横田かおり

-yokota-kaori-

本の森セルバBRANCH岡山店

1986年、岡山県生まれの水がめ座。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。1万円選書サービス「ブックカルテ」参画中です。本の声、きっとあなたに届けます。

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